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まほろばの国 ぶらり一人旅! 恭仁京大極殿と山城国分寺跡に一人立つ! [旅]

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恭仁京大極殿と山城国分寺跡

 この場所は天平12年<740>12月15日に、聖武天皇が、「恭仁宮に幸す」と宣言して、平城京<奈良市>から遷都して来た所で「恭仁京」と呼ばれました。聖武天皇が恭仁京に遷都された理由は明らかではありませんが、北に急峻な山地を頂き、南に平野が開けて、その中央を泉川<木津川>がゆったりと流れる瓶原の環境も無視できない重要な要素でした。「万葉集」には、新しき都を称える、歌が収録されています。

  三香の原 布当の野辺を 清みこそ 大宮のところ 定めけらしも <1051>
  咲く花の 色は変わらず ももしきの 大宮人ぞ たち変わりける <1061>

このように新宮を詠んだ歌には、季節によって移ろう景観の美しさや、「泉川」と呼ばれた木津川の清流に心引かれたものが多いようです。

 恭仁京の中心には、天皇の住まいや、国の行政官庁が入っていた恭仁宮が設けられ、宮の中央に国政を司る建物が配されました。そこには平城京から移築された大極殿が聳え立ち、天平の瓦が輝いていたのです。

 現在恭仁小学校の裏にある土墳が恭仁宮大極殿の跡で、昭和51年<1976>京都府教育委員会によって発掘調査が実施されました。

 恭仁京は僅か3年余りの短命な都でしたが、この太極殿はじめ、恭仁宮の中心部は後に、山城国分寺として再利用されました。大極殿<国分寺金堂>跡の東側は、国分寺の鎮守社として祠られていた御霊神社の境内地だったところで、永年地域の氏神として、信仰を集めていた社には、楠・椿が繁茂して、大極殿跡とともに、歴史的な景観を保っています。

 恭仁宮跡の発掘調査は、昭和49年<1974>より、京都府教育委員会によって行われ、平成8年、<1996>には宮域が確定しました。


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