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人間は増長してはいけない! 傲慢は結局は自らの存在を危うくする! [健康]

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 人間は「胎生」のものとも、「裸虫」ともいわれる。胎生で発生するものは、そのものに蹄が必要な生活があれば、蹄が付いてくるし、毛皮が必要な生活があるならば毛皮を付けて生まれてきます。この様に自然界の中で生物が生き抜くための条件は、生まれた瞬間に既に持って生まれてきます。

 それではヒトはどうか? ヒトは靴を履いて生まれてこないし、衣類も着てきません。まさに「裸虫」で、裸の状態で生み出されます。そのためヒトは、自分の住みやすい条件を創り出さなくてはなりません。寒さには衣服を、食べものを採取する時などには道具を発明しました。それが「文化」というものですが、その文化を以て自然をヒトにとって快適なものに変えてきた結果、人類が栄え、ヒトの数が増えてきました。それに比例して、本来ヒトが住めないようなところに住んでいるという様な皮肉な結果も齎せた。≪これは住環境だけでなく、ヒトが関係する全ての局面でみられる現象だ!≫

 そういうプロセス=自然淘汰の中で、自然に即した生き方が出来なくなってきています。ヒトは水中で生活するものではないし、空中で生活するものでもない。土と密接な関係を持ち、土によって作られたものを食べ、土の上で寝て生きていく動物≪ヒトは地球に生きている全ての動・植物の中の1種≫である。ヒトは土に根差して、ゴロゴロでも生きていければいいのですが、文明というものを得た結果、根源の条件が1枚1枚剥ぎ取られていき、知恵を付け、快適さというものを求めて今日に至ったのである。

 そのような過程のなかで、「根本的なヒトとはなにか?」という事を忘れ去ってしまったのではないか? そのため病気になった時でも、「人工的なもの」の方にどうしても走ってしまっているのではないか?人工的に作り出したものを摂り、作り出された条件の中に自分の存在を閉じ込めてしまっている。ヒトが潜在的に持つ、「自然治癒力」に思いを馳せることはなく、「人工的な治癒力」に比重をおいています。

 然し「ヒトと雖も、あくまでも自然界に属する」存在であるから、自然の条件を逸脱すれば滅びます。文明と、ギリギリの自然条件をどこまで保存でき、折り合いをつけられるかが、ヒトの健康、引いては存在に対して最も大切なことだと思う。文明社会においては、自然は置き去りしがちで、ヒトは傲慢に陥りやすいが、出来るだけ、「自然」に回帰することが大切だ。

 最近よく、「現代社会は病んでいる」とか、「現代人の病根」とか言われることが多くなった。仏教では、地球上に生存する生き物を「郡生」という。ヒトは、ヒト中心にした考え方で、ヒトにとって「有用なもの」「便利なもの」などという基準で、必要・不必要と峻別しています。しかし仏教の世界では、「この世のすべてのものは、仏の世界を作り上げるために、一つ一つの生き物は必要があるから存在すると説いています。

 その考え方に立って考えると、ある細菌を人類の敵と規定したり、他の生き物を殺してまでも生き残らなければならないという事はありえないという事になります。群生=全ての生き物が、それぞれの寿命を持ち、それぞれの使命を持って、自然界を構成しているわけなので、その役割を、「ヒトの都合」で取り上げ、潰し、壊し、ヒトだけが生き残ろうとすれば、同時にそれは自らの存在も滅亡させるという事に帰結せざるを得ない。

 健康(や人類の生存、大袈裟に言えば地球の存続も)という事は、すべてのことに関して、「自然で調和のとれた生活姿勢(態度)をとること」と言えるのではないかと思う。※(「地球にとって、人類は癌細胞である」という学者もいる)
 


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