仁礼中村地蔵堂 水仙や、蕗の薹が!信濃さんの腰に巻かれた白布のいわれ! [旅]
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仁礼中村から、旧道を、菅平方向に向かい、(新)406号線と交差する地点の手前を左側に入った所にこの地蔵堂がある。畑の中にポツンと立つ、こじんまりとした地蔵堂である。この堂は単に地蔵菩薩を祀ってあるだけでなく、地域の集まりや、冠婚葬祭の行事にも使われている身近な存在となっている。小生の親戚もこの堂の直ぐ傍にあるのだが、叔父・叔母の葬儀もここで執り行われた。近所の多くの方々もお参りに来ていただき、素朴な地蔵堂と相俟って、ほのぼのとした葬儀でした。
地蔵堂は今は中村地籍になっているが、常盤の道祖神に彫りこんである文によれば、嘗ては常盤組が地蔵堂組と称した時もあったと記されている。この周辺には墓碑とか石仏が多いが、この地蔵堂の入口には、多くの
石像が群をなしている。
仁礼中村地蔵堂 水仙や、蕗の薹が! 信濃さんの腰に巻かれた白布のいわれ!
https://youtu.be/hs4-FXpvkVU ←clickしてみてください! 地蔵堂の動画が出ます!
その石像群の中に、4尺位の石塔がある。表に「天下泰平」「国家安穏」と記してあるが、「信濃さん」と呼ばれている。腰から下の病気に霊驗新たかでありと言われ、今でも真新しい白布が巻かれている。その昔、大峡但馬守と坂田信濃守が争い、信濃守が討ち死にした。その際、「碑を建ててくれ、腰から下の病気なら治してやる。」と遺言したという。以来、近郷の人が訪れて願をかけ、病が癒(い)えるとお礼に腰ミノを奉納してきた。その名残が、腰に巻かれた白布として今でも伝わっているのである。
撮影中その石塔も目に入り、白布が巻かれていたので、「何なんだろうなあ!?」と思ったが、そういう謂れがあったのだと、撮影後寄った親戚宅で、従弟から聞いて初めて知った。「停年退職して、(こんなところまでやって来て郷蔵や、地蔵などを廻って)気楽でいいなあ!」と言われてしまった。その従弟は小生と12歳の違いがあり、未だ仕事をしている身である。
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仁礼中村から、旧道を、菅平方向に向かい、(新)406号線と交差する地点の手前を左側に入った所にこの地蔵堂がある。畑の中にポツンと立つ、こじんまりとした地蔵堂である。この堂は単に地蔵菩薩を祀ってあるだけでなく、地域の集まりや、冠婚葬祭の行事にも使われている身近な存在となっている。小生の親戚もこの堂の直ぐ傍にあるのだが、叔父・叔母の葬儀もここで執り行われた。近所の多くの方々もお参りに来ていただき、素朴な地蔵堂と相俟って、ほのぼのとした葬儀でした。
地蔵堂は今は中村地籍になっているが、常盤の道祖神に彫りこんである文によれば、嘗ては常盤組が地蔵堂組と称した時もあったと記されている。この周辺には墓碑とか石仏が多いが、この地蔵堂の入口には、多くの
石像が群をなしている。
仁礼中村地蔵堂 水仙や、蕗の薹が! 信濃さんの腰に巻かれた白布のいわれ!
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その石像群の中に、4尺位の石塔がある。表に「天下泰平」「国家安穏」と記してあるが、「信濃さん」と呼ばれている。腰から下の病気に霊驗新たかでありと言われ、今でも真新しい白布が巻かれている。その昔、大峡但馬守と坂田信濃守が争い、信濃守が討ち死にした。その際、「碑を建ててくれ、腰から下の病気なら治してやる。」と遺言したという。以来、近郷の人が訪れて願をかけ、病が癒(い)えるとお礼に腰ミノを奉納してきた。その名残が、腰に巻かれた白布として今でも伝わっているのである。
撮影中その石塔も目に入り、白布が巻かれていたので、「何なんだろうなあ!?」と思ったが、そういう謂れがあったのだと、撮影後寄った親戚宅で、従弟から聞いて初めて知った。「停年退職して、(こんなところまでやって来て郷蔵や、地蔵などを廻って)気楽でいいなあ!」と言われてしまった。その従弟は小生と12歳の違いがあり、未だ仕事をしている身である。
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