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国定忠治!三原街道を抜け、信州にも足跡をのこす!忠治地蔵やお墓もあります! [須坂探訪]

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 須坂市大日向の薬師堂夫婦桜の脇道を三原街道というが、その道を西進し、普願寺の方へ下っていくと、寿泉院に至る。その寺院の山門手前右側に忠治地蔵が祀られている。 嘉永3年(1850)に造られたと伝わる。もともとは野沢温泉にあり、中風除け忠治地蔵として親しまれていた。昭和25年故あって寿泉院移された。忠治は謂わずと知れた江戸末期の「赤城の山も今宵限り~」の浪曲で有名。当時国定村[群馬県]では、天保の大飢饉の際に、自らの私財を投げうって村人を助けたと言われている任侠・博徒です。信州へもしばしば足を運んだようで、[北信はもとより、遠く越前、越中、越後方面にも脚を延ばした]、その際は大笹街道の抜け道[三原街道]を通ったことでも知られている。賭博稼業など罪を重ね、しまいは搩刑と運命となる。

    国定忠治地蔵 信州「蔵の町須坂」寿仙院 150120 01
    https://youtu.be/9Bvw747UPTU  ←カッパ姿の忠治地蔵さんです!

 なお長野市権堂にある、秋葉神社には、本家のお墓から分祀された忠治の墓がある。長野に国定忠治?と思われるかも知れませんが、天保の頃、権堂村に宿をとった際、娘を身売りし、その金を奪われ困っている百姓に同情し、助けたという逸話が残っています。権堂村[今はアーケド街になっており長野市でも最も賑わう商店街になっている]にも足を運んでいたようです。

 まあその様に、忠治親分も、信州にも、いろいろ足跡を残しているのである。
[三原街道は、本道の抜け道的要素もあり、表向けに出来ない稼業の忠治が通ったということは、三原街道の機能を示しているようでおもしろい!]
 


 

    




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