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北国脇街道=松代道の宿場町 川田宿を歩いてみた! [歴史探訪]

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 須坂の福島宿を出て、松代へ向かうと、最初の宿場町「若穂川田」という集落に出ます。一部区間で谷街道の名でも呼ばれていますが、松代までは、「北国脇街道=松代道」と重なります。

 川田村は江戸期に農業中心の「東川田村」と町場のあった「町川田村」に分れていましたが、慶長16年に北国脇街道=松代道の整備と共に川田宿として成立します。当初は小屋敷(古町)という場所にありましたが、再三の千曲川の洪水に遭い、特に、元文4年の洪水で壊滅状態になり、現在地へと移転を余儀なくされました。

 川田宿は両端が、枡形で挟まれた、「コ」の字形[逆コの字]に形成されています。川田宿の家数は116軒、人口は511人(慶応3、4年改帳記録)の規模。宿場としては、物流(商人の宿泊)が中心だった様で、千曲川の渡(市村の渡・屋代の渡)が船留(運休)の際、特に賑やかだったようです。

   川田宿 本陣跡[現西沢邸] ご高札場 昔の面影を残す宿場町
   https://youtu.be/u6SaBsV_vgM

   川田宿 北国街道信州川田宿 高札場 コの字型の典型的宿場町
   https://youtu.be/x_ZHJRoL0HQ


 嘗ての宿場町のあった小屋敷には宿場についての案内は何もありませんが、石畳の敷かれた本町通りに辿り着くと、常夜灯 があり、漸く宿場らしい風景が目に入ってきました。400m先にも常夜灯があり、枡形もあるのですが、この一直線上左右に家並みがあるのみです。その中で、北村家と西澤家の2つの旧家が突出して存在感を示しています。西澤家は本陣と問屋を務めた家柄で、その脇には高札場も残って居ます。←Cf高山村堀之内の御判屋

 こうして、仁礼宿とか、須坂の福島宿とか、海野宿などを実際にまわってみると、当時の様子の一端や、関わり合いなども伺われ、本などで見るだけでは知りえない事も判ります。郷土の歴史も知っておくべきと思いました。



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