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【神社仏閣名所旧跡めぐり】風荒ぶ白井城跡に一人立つ!強者の夢のあと!(群馬県) [旧跡探訪]

神社仏閣名所旧跡めぐり】風荒ぶ白井城跡に一人立つ!強者の夢のあと!(群馬県)


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渋川の市街から国道17号を北上すると、利根川と吾妻川の合流点の橋に差し掛かる。習志野を出発して、遥々(?)ここ群馬県は、17号沿線道の駅「こもち」に到着した。急ぐ旅でもなし、後は須坂へ帰る丈だから、ここでゆっくりしようと思った。


 駅の道自体もいろいろと見るべきものがあり、ぶらぶらしていたら、宿場跡(白井宿)の案内板が目に入ったので足を延ばしてみた。真ん中に堀割があり、両の道には、昔ながら商家が連なり、伝統ある看板がいくつも見られた。趣のある街道を、暫く行くと「白井城跡」の案内板が目に入った。右手に岡状の山が横たわっている。


右折し勾配を登り切ると、尾根筋の小道があり、暫く行くと、下に降りる道がある。ここら辺に来ると、同じような細い道が何通りもあり、ちょっとした窪地に通じる道だったり、土塁の上を歩く道だったりする。


 城域の殆どは、今は農地になっていて、農夫が畑仕事をしていたりするが、それでも本丸周辺の土塁や堀、虎口の石垣などは明瞭に残っており、一見畑に見えるところもよく見ると堀だったりして、曲輪跡だと解る。


 築城時期は定かではないが、関東管領家、山内上杉氏の重臣であった長尾景仲の築城といわれている。長尾景信の死後、管領家宰職の相続をめぐり家督争いが勃発、長尾景春が鉢形城を築いて立て籠もった(長尾景春の乱)。白井城は山内上杉の重要拠点として機能した。長尾景春と同盟する古河公方・足利成氏によって攻められもした。


 天文151546)年の河越夜戦で上杉家の勢力が衰退し北条氏が侵攻してくると、山内上杉憲政は天文211552)年、平井城を捨て越後に亡命、以後、永禄31560)年以降、白井城は上杉謙信の関東出陣の際の基地の1つとなった。永禄121569)年、甲相駿三国同盟が崩れると北条氏康は上杉謙信と同盟した。武田信玄は上州へ侵攻、永禄131570)年には岩櫃城の真田幸隆が白井城の長尾憲景を攻め一時開城せしめた。元亀21571)年、北条氏康の死後、氏政により甲相同盟が復活すると翌年、再び・・・・・・・・・・・


 続きはこちら ☞ http://mahoroba19.com/archives/13310


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参考 埋もれた古城 関東地方の城編


http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Gunma/Shiroi/index.htm


画像 小生オリジナル


 


 


 


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【史跡巡り】中之条指定史跡!桃瀬の水牢跡に寄ってみた!税の取り立ては、昔も今も過酷で変わりない! [旧跡探訪]

【史跡巡り】中之条指定史跡!桃瀬の水牢跡に寄ってみた!税の取り立ては、昔も今も過酷で変わりない!


 


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須坂~習志野を往復するのに、菅平から、鳥居峠を越え、群馬県に入り、嬬恋~長野原~国道17号に出る道は、混雑もなく、時間が読めるので、よく使ったルートである。但し冬場は、鳥居峠の途中から、菅平に抜ける山道が通行止めになるので使えないのが惜しい。


 中之条から国道145号線を沼田方面に向かう。吾妻神社=和利宮を、越えた先、道路端の錆びついた看板が目に留まった。「桃瀬の水牢跡」とある。桃瀬川を渡り、正面。 桃瀬川の右岸・山際にある。国道から西へ200m程の所にある。群馬県中之条町にある異色の史跡です。「水牢」とは、どんなものであろうかと思い寄ってみた次第。


 沼田藩の第五代藩主真田信利の治世下で、年貢を納められなかった領民に「責め苦」を与え、領民の見せしめにしたという。吾妻地域に同種の史跡が9箇所あり、この桃瀬の水牢がもっとも原型をとどめているであろうと言うことで町指定の文化財となっております。が・・・


吾妻地域に見られるこの種の遺跡が、利根・沼田地域には見られない事から実際に真田信利の時代に用いられたものではなく、それ以前から使用されていたのではないか?と言われています。


 町史跡 桃瀬の水牢跡。指定は昭和5438日。水牢は人を水の中に入れる水責めの一種でおもに年貢のとりたてに使われたといわれる。水牢跡は近世の沼田藩の中で吾妻東部だけに残されている遺跡であり、沼田城の5代藩主:真田伊賀守信利は極悪非道な領主だった。重税を課し、厳しい年貢取立てをした。逆らう民には・・・・・・・・・・・


 


つづきはこちらから ☞ http://mahoroba19.com/archives/10500


 


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参考 http://nordeq.web.fc2.com/shiseki/momose.html


http://53922401.at.webry.info/201202/article_16.html


 画像元 オリジナル


(一部)http://53922401.at.webry.info/201202/article_16.html


 


 


 


 


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特別史跡 大湯環状列石 十和田湖に向かう途中「環状列石」と案内板が出ていたので行ってみた!日本最大の規模! [旧跡探訪]

特別史跡 大湯環状列石 十和田湖に向かう途中「環状列石」と案内板が出ていたので行ってみた!日本最大の規模!


 東北北統轄支店に赴任して、2週間目 盛岡・秋田・青森支店の合同慰安会が十和田湖畔であり、各自現地集合とのことで、初めての遠出をした。十和田ICを下り、103号線を、十和田湖に向かって走り、もう少しで十和田湖に着くというところで、「大湯環状列石」という案内板が目に入った。「日本にも環状列石なんてあんのかい!?」と先ず思った。列石と言えば、イギリスなどにある「ストーンサークル」等を連想する。これは寄ってみようと思い、早速寄り道だ!(こういう事があるから、早く出て来るに限る!)大湯温泉から、66号に入り、黒又山を左に見て、暫く行くと環状列石のある遺跡群に出た。


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遺蹟は、秋田県北東部、鹿角市の米代川上流に位置し、その支流である大湯川左岸、標高180m程の台地上に構築された、縄文時代後期前葉から中葉(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)の環状列石を中心とした遺跡である。


 環状列石の形態は、定住とともに発達した集落形態である環状集落を背景としたものと考えられている。遺跡の中心として万座(まんざ)と野中堂(のなかどう)の二つの環状列石があり、それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物跡、土坑・貯蔵穴、遺物廃棄域が同心円状に・・・・・・・・・・・・・・・・・


  


つづきはこちらから ☞ http://mahoroba19.com/archives/8288


  


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記事参照元 JOMON JAPAN 北海道・北東北縄文遺跡群


http://jomon-japan.jp/jomon-sites/oyu/


ウイキペディア


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B9%AF%E7%92%B0%E7%8A%B6%E5%88%97%E7%9F%B3


画像元 yjimage


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E5%A4%A7%E6%B9%AF%E7%92%B0%E7%8A%B6%E5%88%97%E7%9F%B3&rkf=2&ei=UTF-8&imt=&ctype=&imcolor=&dim=large#mode%3Dsearch


画像元 Original


 


 


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【歴史探訪】 高山村堀之内にある御判屋! 三叉路に展示! [旧跡探訪]

 



【歴史探訪】 高山村堀之内にある御判屋! 三叉路に展示!


 


 このところ高山村桜回廊巡りを重ねたので、調子に乗って、今回は歴史的な遺物について書いてみます。高山村には、福島正則の荼毘地跡とか、屋敷跡などがあるのですが、それらが何処にあるか、迷いながら探していた時に偶然出会ったものです。


  それは「御判屋」と言われるもので、江戸時代初期に、幕府が、庶民にお定めを周知徹底し、以て徳川の威光を知らしめる為に、交通の要所など、全国津々浦々に設置された(現代風に言えば)掲出板のことです。高札または高札場と言われました。高山村堀之内の正則の屋敷跡から下った三叉路にそれはあります。


  それなりの古さだったので、江戸時代のものがそのまま・・・・・・・・


  


   つづきはこちらから ☞ http://mahoroba19.com/archives/7631


 


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記事・画像・動画 original


参照 高山村HP


 


 


 


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【みちのくぶらり一人旅】 日本にキリストの墓がある!ホンマかいな!? 青森県新郷村に行ってみた!  [旧跡探訪]

【みちのくぶらり一人旅】 日本にキリストの墓がある!ホンマかいな!? 青森県新郷村に行ってみた! 


  


キリスト教徒にとっての救世主・イエスは、エルサレムで生まれ、宗教活動を行い、そして処刑されたと広く信じられている。新約聖書の福音書のクライマックスはなんといってもイエスの復活だ。その埋葬地はエルサレムというのが世界の常識で、普通に考えても疑念の余地は殆どない。茨木県北茨木市に、皇祖皇大神宮の竹内家(ここも行ったので後日UPします!)に伝わる竹内文書という古文書が伝わっており、その中に、キリストの墓が日本にある旨綴られていたので、それが青森県新郷村という事は知っていた。昨日から青森県に入っていたのだが、大鰐温泉(温泉はなんと混浴だった!)に泊り、三内丸山古墳などを見て、十和田湖に戻ったので、「今日こそは・・・・・・・・・・・・・


  


   つづきはこちらから ☞ http://mahoroba19.com/archives/7476


                  キリスト祭の動画2本添付しております!


 


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記事・動画 引用・参考元 あなたの街の情報ネット「Jタウンネット青森県」


http://j-town.net/aomori/column/gotochicolumn/206179.html?p=all


ネイバー纏め


https://matome.naver.jp/odai/2137670774676495901


画像元 original  


一部画像元 yjimage


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%A2%93+%E6%96%B0%E9%83%B7%E6%9D%91&rkf=2&ei=UTF-8&imt=&ctype=&imcolor=&dim=large


動画元 あなたの街の情報ネット「Jタウンネット青森県」 URL 略(同上)


 


 


 


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飛鳥時代の最大級の古墳と判明<小山田古墳>巨大方墳に驚き…研究者ら「天皇」、「豪族」の墓か!? [旧跡探訪]

飛鳥時代の最大級の古墳と判明<小山田古墳>巨大方墳に驚き…研究者ら「天皇」、「豪族」の墓か!?

飛鳥時代最大級の方墳と判明した小山田古墳。一辺約70メートルという破格の大きさに研究者は驚きを隠さない。被葬者は初の官寺建設や遣唐使派遣などで知られる舒明(じょめい)天皇か、それとも天皇をしのぐ権勢を振るった豪族・蘇我蝦夷(そがのえみし)なのか。

 飛鳥時代の大型方墳は、推古天皇陵とされる山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺約60メートル)、石舞台古墳(明日香村、一辺約50メートル)などがある。当時の権力中枢からは離れるが、千葉県・龍角寺岩屋古墳は一辺78メートルある。

 奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が新たに発見した石室通路(羨道(せんどう))の幅は約2・6メートルあり、石舞台古墳(2・1~2・6メートル)に匹敵する。小山田古墳が築かれたとみられる7世紀前半について、菅谷文則所長は「他の古墳が縮小していく時代に巨大な方墳を造れたのは・・・・・・・・・・・・・


 
 

 

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記事・画像 引用・参考元 Yahoo News <毎日新聞>【矢追健介、皆木成実】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170301-00000115-mai-soci



世界遺産・国宝!姫路城、謎の屋敷群復元へ 情報提供!謝礼500万円を準備! [旧跡探訪]

世界遺産・国宝!姫路城、謎の屋敷群復元へ 情報提供!謝礼500万円を準備!

世界文化遺産・姫路城(兵庫県姫路市)の三の丸(いまの三の丸広場周辺)にかつてあり、今では謎とされる屋敷群の復元をめざし、市が4月から、広く情報提供を呼びかけることを決めた。連携して取り組む市民団体「姫路城を守る会」が総額500万円を用意。有力な資料や情報の提供者に贈るという。

 市が22日発表した。市立城郭研究室などによると、屋敷群には、城主が政務をとった「御本城(ごほんじょう)」があった。御居城(おんきょじょう)、三の丸居城とも呼ばれ、城を築いた池田家の後に・・・・・・・・・・


 
 

 

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記事・画像 引用・参考元 Yahoo News < asahi-soci >
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170225-00000023-asahi-soci



大型建物や鍜冶工房群発見=邪馬台国時代、国内有数規模―滋賀 [旧跡探訪]

大型建物や鍜冶工房群発見=邪馬台国時代、国内有数規模―滋賀

 滋賀県彦根市教育委員会は17日、同市の稲部遺跡で、弥生時代後期から古墳時代中期(2世紀から5世紀)までの大型建物や、鉄器を生産した鍜冶工房群の跡が見つかったと発表した。

 遺跡は邪馬台国が栄えた3世紀前半に最盛期を迎えた大規模集落跡で、建物や工房群は国内有数の規模という。市教委は「祭祀(さいし)・政治都市と工業都市の両面を持ち、巨大勢力の存在を示す」と・・・・・・

 
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     引用・参考元 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161017-00000081-jij-soci


日本一忙しないというか、交差点の一角を占める古墳<須坂市本郷大塚古墳>見物記 [旧跡探訪]

日本一忙しないというか、交差点の一角を占める古墳<須坂市本郷大塚古墳>見物記

須坂市の銀座通りを、東方向に走り、高山村・山田温泉・山田牧場に行く54号線(県道須坂~高山線)と、北信濃くだもの街道との、変則5差路の交差点の一角に、本郷大塚古墳がある。全国に数多くの古墳があるが、交差点の一角にド~ンと座っている古墳も珍しいだろう!

小生は古墳にも興味を持っているので、ドライブ中でも、先を急がない時は、車を降りて、動画などを撮るようにしているが、この本郷大塚古墳を最初に見つけた時は、「こりゃあ!何処に停めたらいいかい!?」と思った。結構車の往来も激しいし!いやはや忙しない見学となった。(車が行き交い、信号待ちの車から、「古墳など撮影している変な奴がいるぞ!」と奇異な視線を浴びながら<☜意識過剰なのだ!>撮影と相成った!)

この古墳は、上高井郡高山村に近い本郷地籍に位置し、扇状地(八木沢川扇状地)扇側部にあたる場所に存在する。周囲には縄文時代前期から平安期に至る橋場遺跡や行人塚古墳などがあり、原始時代からの居住地であることが確認されている。広域農道の交差点付近に位置し、道路設計変更を行い保存されている。石室は盛土により発掘後封土されている。
横穴式石室長8メートル、径15~16メートル、円墳。古墳の形態築造方法は近世~現代の破壊により不明な点もある。平成4年の発掘報告では円墳として取り扱う。積石塚であるか否かは不明。

引用・参考元 いきいきすざか http://www.city.suzaka.nagano.jp/enjoy/gakusyu/shiteibunka/gairyaku/zai51.php


昔から古墳であることは知られていたようですが、盛られた土も近くの田畑に使われ、数個の石材が地表に露出しているだけだったので、既に盗掘が進んでしまっているとされていました。昭和56年の広域農道区画整理に伴い、この古墳が道に掛かってしまうため、緊急発掘調査が行われた。<遺跡の中には、盗掘に遭って、副葬品などが悉く盗難に遭っているケースが誠に多い中、この遺跡は敢えて壊さなくても、盗もうとすれば簡単にそう出来たのに、多くの埋葬品は残っていたという! 流石我が郷里の人々は善良な人が多いと身贔屓ながら思うのである!はっはっは!>

調査の結果、驚くべきことに、この古墳の内部はとてもよい状態で残されていたことが判明、出土した宝物は県下でも稀にみる一級品ばかりでした。中でも「圭頭太刀<ケイトウタチ>」は、漆塗りの鞘は残っていないものの保存状態がよく立派な太刀だそうです。
柄<ツカ>は、木に美しい打ち出し模様を施した金銅板で覆い、柄頭<ツカカシラ>は、中国の儀式に用いられる「玉器の圭」に似ていることから圭頭<ケイトウ>と呼ばれる形をしています。
圭頭太刀、三輪玉、刀子、馬具等多くの出土遺物がある玄室。その他にもこの古墳からは武器や三輪玉、装身具、珠文鏡<シュモンキョウ>人骨などが出土しました

このような圭頭太刀を副葬している被葬者は、相当身分の高い人だったことが推測できるのです。扇状地を控えた牧場経営者の墓と推定され、古墳時代後期の須坂地方を代表する遺跡である。

これら本郷大塚古墳からの出土品は須坂市立博物館(臥竜公園に併設)にて展示され、見学することができます。

 須坂は、百々川・松川<八木沢川も含む>の2つの川の扇状地に位置し、須らく坂の町ですが、古代の昔から、人が住んで居た様で、市内の各所に、遺跡が点在しています。「八町鎧塚」古墳や、百川・鮎川沿いにある天神塚古墳を始めとする古墳群、坂田山山麓に点在する古墳群など須坂には考古学的に大変貴重な古墳が幾つもあります。

 我が故郷須坂は、この様に、住みよい場所だったことが分かります。古墳を見た後、この交差点から車で3分のところにある、須坂温泉「古城荘」へ行き、ゆっくり温泉に浸かり、疲れを癒しました!

 

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引用・参考元 「須坂探検マップ」 http://www.suzakamap.com/tanken/page.php?_id=272


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【歴史探訪】 真田10万石 海津城(松代城)城内散策! NHK大河ドラマ 真田丸でお馴染み! [旧跡探訪]

 国道18号から、戸倉上山田駅を超え、旧北国街道に入り、屋代駅に寄ってみた。屋代駅は既にアップ済み。
尚も18号には出ず、千曲川沿いに、松代に出ました。所用も終わっていたので、海津城北駐車公園に車を停めて、暫し休息をとる。

 案内板を見たら、海津城が直ぐ傍に見えたので、行ってみることにした。何時もは太鼓門から入っているので様子が違った。土塁を超えて、場内に入った。北不明門から入るを止め、西側に廻って、櫓北西隅にある、櫓から伸びる少々高めの土塁をよじ登ったが、結構急だったのと、草が少々濡れていたので、滑って扱けてしまった。

 仕方がが無いので、櫓の石垣と土塁の境目に足を掛けて登った。カメラ片手で登るのは意外と難しかった。この土塁から、城方向を見ると、堀が俯瞰できる。土塁を南方向に回り込み、取っ付きを15メートルくらい滑り降りた。そこから太鼓橋に向かって歩く。太鼓門まで行くと、観光客が並んでいた。其の儘撮影を続行していたが、「シャッターを押してくれませんか?」と依頼された。小生も俄か長野市民になって、お客様を歓迎する意味でシャッターを押しました。

 再びカメラを回し、太鼓門から、東門、時計と逆回りに堀を巡って、再び東門から城内に入り、北不明門へと移動。これで城を一回り。

 小学生の日記みたいになってしまったので、ここで海津城の歴史など一くさり。松代城は、永禄3年に武田信玄によって開かれ、高坂昌信を主とした。当初「海津城」と呼ばれていたこの城は、武田氏北信の攻めの要の城であった。 川中島の合戦は、この城を舞台に繰り広げられた。上杉謙信と対峙した妻女山は目の先にある。

 【歴史探訪】 海津城北不明門~太鼓門まで!撮影依頼を受けてしまった!
  https://youtu.be/ldm1SYoP1f0

 【歴史探訪】 海津城太鼓門~北不明門まで!兵ものどもの夢のあと!
  https://youtu.be/AJiLRWwyJL4

 【歴史探訪】 海津城北不明門 北堀 桐の花咲く!
  https://youtu.be/8qiIUnFEkss
 
 天正10年、武田氏滅亡後に森長可が城主となったが、織田信長が本能寺に斃れると上杉景勝の支配するところと変わり、天正12年には須田満親が城将となった。慶長3年、上杉景勝の会津移封によりこの地は秀吉直轄地となるが、慶長5年の関ヶ原の合戦前に森忠政が城主となった。 忠政は、関ヶ原の戦功により美作津山に移封、慶長8年に家康の六男松平忠輝が城主となった。松平忠輝改易後、甥の松平忠昌が城主となるが、元和5年に越後高田へと移り、変わって酒井忠勝が10万石で入封することとなる。元和8年、酒井忠勝が出羽庄内に転封移替わって信州上田よりNHK大河ドラマ「真田丸」でお馴染みの真田信之が10万石を領して入封し、以後明治までこの地を治めた。

 明治維新後真田家が臣下に払い下げたり、買い戻したりと目まぐるしく変遷したが、真田家より、松代町(当時、その後長野市に合併)に寄付され、現在のように整備され、市民の憩いの場になっている。

 現在は堀の一部、太鼓門、太鼓橋、北不明門等しか残っておらず、本丸や、櫓などの建物は見ることが出来ないのが残念である。10万石は、松本と真田藩しかなく、信濃の国では大藩であった。とはいえ、甲斐の国信玄と、越後の謙信の間に入り、また北条からの脅威の中で、知略で戦うしかなかったのは、「真田丸」のストーリーの通りである。

 大河ドラマのお陰で、上田、松代も観光客で大いに賑わっている。

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【古墳】大蔵京古墳  豊萩務原埜神社と大蔵京古墳 [上田市] [旧跡探訪]

 上田バイパスを走っていたら、「大蔵京古墳」の案内板が目についた。100mとあったが、山際で、それらしきものが見当たらない。何処にあるのかなあ!? いくら探してもそれらしきものが見当たらないので諦めた。傍に赤い鳥居があり、折角だから参拝して行こうと思い、結構長い階段を上った。境内に入ったら・・・・・・ 

 

  【古墳】大蔵京古墳  豊萩務原埜神社と大蔵京古墳 [上田市]   

  https://youtu.be/VqOTic-JvTE

   

  【神社仏閣めぐり】 豊萩務原埜神社[上田市]古墳もあったぞ! 信州神社仏閣名所旧跡巡り
        

  https://youtu.be/6dp8VsrPYu0

  

  【神社仏閣めぐり】 豊萩務原埜神社 上田市 古墳あり! 信州「神社仏閣名所旧跡巡り」
 

  https://youtu.be/qnq8R3x1cck

  

  【古墳】 大蔵京古墳 上田市 豊萩務原埜神社と隣同士! 信州神社仏閣名所旧跡巡り
    

  https://youtu.be/8qJEuMLpp64


仁礼中村地蔵堂から大笹街道仁礼宿を往く! [旧跡探訪]

 北国街道は、正式には北国脇往還といい、中山道追分と北陸道高田を結ぶ三十五里(約140km)からなり、信州の東から北に抜ける主要街道でした。江戸時代には真田藩を始めとする信州の諸藩のみならず、加賀の前田藩など北陸諸藩の参勤交代にも使用されました。また物資の輸送、佐渡の金山から江戸への金の輸送にもら善光寺に参拝する旅人もこの道を利用しました。

 しかし、この正式表街道の他に、北国街道には、須坂 ― 中軽井沢(大笹)を最短で結ぶ、謂わばバイパス街道 が存在した。

 大笹街道は、須坂市福島宿を起点に、仁礼、菅平、鳥居峠を越えて群馬県大笹宿終点となる街道を言います、更に大戸道を経て高崎、関東に出る大変重要な脇街道でした。仁礼は難所の菅平の登り口の宿で、江戸時代の様子を十返舎一九の「続膝栗毛」から伺うことが出来ます。当時華のお江戸に出るためには、北国街道・中山道の主要街道を通るのが一般的でしたが、距離の短縮、宿場数が少ない、関所がなかったなどの理由で、北信濃の荷物を江戸・東京に運ぶため大笹街道が大いに利用されました。

 また、江戸や関東の文化や産業、情報が、北信濃にもたらされる重要な道でもあり、須坂の「東行社」←全国初の製糸結社]の設立されたことにも、この街道からもたされたとの見方もあるくらいです。仁礼から鳥居峠間は、当時の街道が部分的に残って居ますが、毎年峠が青葉に覆われる頃に、大笹街道を歩く行事が「財団法人仁礼会」主催で催されています。

 さてその仁礼宿ですが、大笹街道のバイパスもでき、従来の道は地元の人の生活道路となってしまいましたが、仁礼宿には「上・下問屋」「新問屋」の三つの問屋があって、仁礼宿に運ばれた荷物は一旦問屋に下ろされ、次の日に宿の馬に積み換えられ先に進む仕組みだったようで、大笹街道は別名「中場稼ぎの道」とも呼ばれたようです。仁礼中村には、その問屋、郷倉なども見られ、往年の宿場の跡が伺われます。

 この動画は仁礼中村地蔵堂から、裏手の街並みを通り、途中から「大笹街道」に出て、宿場町の面影を辿りました。ここには小生の親戚もあり、子供のころよく遊びに来ましたが、そんな仁礼が重要な歴史的意味を持っていたことには無知でした。停年退職した後、いろいろ調べ、実際にその場を訪れることにより、いろいろなことが判るにつれ、郷里に対する誇り、ありがたさを感じるようになりました。

     仁礼中村地蔵堂から大笹街道を往く!
     https://youtu.be/c09xg8d6WW4

     郷蔵 今も残る数少ない郷蔵 蔵の町須坂仁礼中村地区
     https://youtu.be/ACmaq2Q29UE

     仁礼中村地蔵堂 水仙や、蕗の薹が!もう春は近くまで来ているぞ!
     https://youtu.be/j2okBj7g1-k
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「スワッ!」古墳跡から土器の破片発見か!? [旧跡探訪]

 「スワッ!」古墳跡から土器の破片発見か!?
坂田山山麓古墳群の一つを探訪して、山道を登っていたら、陶器の破片が沢山溜まっている場所を発見!「スワッ!」古墳から土器の破片発見か!?と色めき立ったが、どうやら傍に工房があるらしく、廃棄した陶器らしいと判明!中には如何にも縄文土器見たいなものもあったので残念! 坂田山古墳群の1つを探訪した跡だけに先走ってしまった!

     「スワッ!」古墳跡から土器の破片発見か!?
     https://youtu.be/r5zFOiE6aDg

坂田山山麓に点在する古墳を探索する! [旧跡探訪]

坂田山山麓に点在する古墳を探索する!
須坂一帯の扇状地には多くの古墳が散在する。遠く古墳時代から、当地に人が住み着き、営々と生活が継続されてきたと思われる。今回は1基のみの探訪(?←大袈裟な!)だったが、その古墳の案内板に書かれていたものを転記します。
 「坂田山山麓の古墳群」 古墳時代後期のもので、次のような古墳群が散在する。
①大星古墳群4基。円墳、積石塚で、2・3号墳は、横穴式石室
②扇の入り古墳群 3基。積石塚で横穴式石室。碧玉製匂玉 鉄鍬を出土
③堂場古墳群 1号墳は葺石、2号墳よりは葺石と埴輪円筒版検出 
④大塚古墳群
⑤中畑古墳
⑥横穴式石室で鉄製直刀出土
※ 最近になって吉向焼窒跡近くに1基確認された
以上が案内板に標記されていた内容です。この動画よりも前に、八丁鎧塚古墳(積石塚)をアップしましたが、妙徳山山麓鮎川段丘にも多くの古墳が点在しています。そこから山沿い南下した大室というところにも大規模な古墳群があります。善光寺平一帯は古くから人間が住んでいた暮らしやすいところだと思います。

        坂田山山麓に点在する古墳を探索する! 
        https://youtu.be/HtKxSyrC1NI    
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八丁鎧塚古墳 積石塚古墳として、日本で最古・最大の古墳!須坂市指定有形文化財 [旧跡探訪]

 八丁鎧塚古墳は、須坂・長野東ICを降り、料金所を過ぎて、直ぐの交差点を、右折し、幸高の信号]を右折[菅平高原に至る]し、右側に見える妙徳山に沿って、東進し、先程の信号から、5分ほど走った先に、「鎧塚古墳」と案内板が出ていますので、左に入り、2・3分進むと、左側にある古墳です。

 須坂市一帯は古代氏族の墳墓である古墳が多く分布しています。その殆どが川原石を積み上げた積石塚とよばれる古墳です。八丁鎧塚古墳は、上八町の南山麓[妙徳山]を流れる鮎川の段丘上にある6基の古墳群からなって居ます。またこの流域には積石塚(つみいしづか)古墳が多く点在しているとのことで、小生は、探してみましたが、[この八丁鎧塚古墳以外では]、これより西側にある「天神古墳」しか見つけることが出来ませんでした。一帯は林檎畑になっており、その間々に点在しているらしいのですが、畑の境になっている石垣みたいなのが多くあり、古墳に行きつくことが出来ず、早々諦めました。

 上高井郡誌を編纂する際[昭和32年]に、初めて1号・2号墳の学術的な調査が行われ、鏡片や玉類、貝でできた釧(くしろ)と呼ばれる腕輪や刀片、埴輪片、銀メッキされた帯金具など貴重な遺物が出土しました。海から遠いこの地に貝で作られた釧があることや、朝鮮半島で見られる獅噛(しがみ)文様(もんよう)の帯金具が出土したことなどから、大陸との関わりがあったとされています。その際発掘された出土品は、昭和45年須坂市指定有形文化財となりました。

 また平成6年、古墳の史跡公園化に先立つ、謂わば第2次調査により、石棺や新たに6号墳の存在が発見されました。鎧塚古墳は地元のみならず、日本の古墳時代の様相を示す貴重な文化財として、広く全国にその名を知られ、県指定有形文化財の指定を受けました。鎧塚1号・2号墳は径25.5m、高さ3mを越える、積石塚としては東日本最大・最古級の古墳とされています。

 この善光寺平、また須坂一帯は、古墳群が多く、古くから住みよい場所であったようです!

      八丁鎧塚古墳 積石塚古墳として、日本で最古・最大の古墳! 須坂市指定有形文化財
      https://youtu.be/7o4p72gqDwQ
 
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まほろばの国 一人ぶらり旅 マルコ山古墳訪問記! [旧跡探訪]

 まほろばの国 一人ぶらり旅 マルコ山古墳訪問記! <京都支店赴任時の記事>

明日香に来て、例によって、十数か所回り、偶然巡り合った古墳です。数軒の家屋の奥にノソッと現れました。明日香は至る所に、古墳があるのですが、村落の中に、普通に存在している場合も多い。中には、公園みたいになっており、子供が古墳のてっぺんに登ったり、飛んだり、跳ねたりしている古墳もある・・・・・


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