今はプレートが残るのみ! 長野電鉄河東線(屋代線)井上駅跡! 風が吹きすさぶのみ! [長野電鉄]
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今はプレートが残るのみ! 長野電鉄河東線(屋代線)井上駅跡! 風が吹きすさぶのみ!
河東線は、大正11年(1922)年6月に、須坂~屋代間24.4kmが、河東鉄道(株)<現長野電鉄(株)>によって開業し、以来90余年に亘り、沿線住民の足として、住民の期待を担ってきた。井上駅は、須坂~綿内間のほぼ中間に位置するが、この井上一帯は、井上田圃の泥深田(ひどろった)と称され、極めて軟弱な地盤で、線路敷設には難工事を極めた。
河東線敷設の最大の使命は、須坂町(当時)の生糸を移出することで、製糸業の絶頂期に当る大正15年には、約19万貫(710トン)の生産量であった。生糸は須坂駅で集荷され、井上を通過し、屋代駅経由で横浜へ送られ、海外へと輸出された。製糸業が衰退した後は、須坂一帯は果物とりわけ、リンゴの生産が盛んになり、生糸に変わって、林檎などが運ばれるようになった。しかしながら、それらの輸送が車に取って代わり、井上駅から、たったの300m程南側に、高速道路のインターが出来たこともあり、物流は急激に・・・・・・
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記事参考 旧河東線井上駅 プレート案内文
画像・動画元 yjimage Original
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