桂歌丸の遺言!戦争への危機感「戦争を知らない政治家が戦争に触れるな!」 国策落語を作らされた落語界の暗い過去も経験!何時か来た道のきな臭さに警鐘を鳴らす! [この国の行方!]
桂歌丸の遺言!戦争への危機感「戦争を知らない政治家が戦争に触れるな!」 国策落語を作らされた落語界の暗い過去も経験!何時か来た道のきな臭さに警鐘を鳴らす!
7月2日、落語家の桂歌丸が亡くなった。81歳だった。桂歌丸は『笑点』(日本テレビ)での司会ぶりはもとより、古典落語の発掘と継承にも尽力し、落語界に多大な功績を残した。ここ最近は体調不良で入退院を繰り返し、鼻に酸素吸入のためのチューブをつけた状態で公の場に姿を見せることも多かったが、生涯現役を貫き通した。
最期まで噺家として生き、晩年は古典落語の継承に関して後輩の噺家たちに厳しい苦言を呈していた姿も印象的だが、彼がもうひとつ繰り返し語り続けていたのが「戦争」の話である。 たとえば、2015年10月19日付朝日新聞デジタルでは、こんな言葉を残している。
「今、日本は色んなことで揉めてるじゃないですか。戦争の『せ』の字もして貰いたくないですよね。あんな思いなんか二度としたくないし、させたらいかん」「テレビで戦争が見られる時代ですからね。あれを見て若い方がかっこいいと思ったら、えらいことになる」若者は、自分は常に勝つと思っている。やられたらリセットすればいいというような感覚だ。しかし現実的には、召集されて、真っ先に命を落とすのは、「世襲議員のお歴方々ではなく、間違いなく我々一般国民だ。
桂歌丸は1936年に横浜で生まれたが、戦争のため、小学校2年生で千葉に疎開することになる。疎開先の学校ではイジメに遭っていたので、早く横浜に帰りたいと願っていたそうだが、千葉にいたおかげで横浜大空襲に巻き込まれることはなかった。
1945年5月29日に起きた横浜大空襲は、8000人以上の犠牲者を出した空襲である。前述した通り、千葉に疎開していた歌丸自身はこの空襲に直接はさらされていないが、雨のように降り注ぐ焼夷弾の下には祖母がいた。2017年8月5日放送の『報道特集』(TBS)で、歌丸はそのときのことをこのように語っている。
「(千葉市)誉田の山のなかに小高い所があったんです。昼間でしたからね、横浜の空襲は。そこに登りますと、東京湾を隔てて向こう側に横浜があるわけです。黒煙が上がっているのが見えるわけですよ、千葉から。横浜が焼けている。『大丈夫かな? 大丈夫かな?』って、そのことばっかりでしたね。つまり、おばあちゃんの身を案じることが」
結果的に、祖母は生き残った。たまたま逃げた橋の近くだけが焼け残り、一命をとりとめたのだ。定員で入るのを拒まれた久保山の防空壕に避難していた人たちは焼け死んでおり、偶然に偶然が重なって・・・・・・・・・・・・
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記事・画像 引用・参考元 レタラ
http://lite-ra.com/2018/07/post-4104_2.html
画像元 yjimage
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E6%A1%82%E6%AD%8C%E4%B8%B8
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