【神社仏閣巡り】上田からの帰り道!久し振りに妙音寺に寄ってみた!板囲いの寺はヒッソリしており、代わりに猫とカモシカが出迎えてくれた! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】上田からの帰り道!久し振りに妙音寺に寄ってみた!板囲いの寺はヒッソリしており、代わりに猫とカモシカが出迎えてくれた!
上田からの帰り道、18号線を避け、旧北国街道を抜け、屋代まで出て、尚も松代へ抜けて、近道をしようと車を走らせていたら、直進をしたら、森地区(1目10万本=杏の花の名所)の方へ行ってみようかと閃いた。(まだ周囲は明るかったので)
そしたらどういう加減か、倉科集落の入り口に出てしまったので、(まだ森の杏子は咲いていない様子だったので)急遽また気が変わって、久し振りに妙音寺に行ってみたくなった。
寺はこの集落の一番奥の山の際にあるお寺だ。倉科地区も未だ杏は咲いては居なかった。
もう4・5回来ていたから、道は間違えることなく1発で行けた。陽は傾き、少々茜色になった寺の壁は美しかった。車を降りると、少し高台になっている斜面は、平たい石がきれいに積み重ねられていて、その斜面も同じく茜色に輝いている。
よく見ると、その石垣の上に猫が佇んでいて、こちらを見て、鳴き声を上げた。何とか写真に撮ろうとして、近寄ってみたが、案の定立ち上がって、小生から遠ざかろうとこちらを伺っている。慌ててカメラを向けたのだが、猫は素早く動き出し、残念なことに「ブレ」てしまった。
まあそれはご愛敬でいいのだが、寺の入り口に戻り、改めて階段を登ろうとしたら、行き成り『熊注意』の看板が目に入った。幾ら山の際と言っても、人家が4・5軒あるところに、『熊注意』と言われてもなあと思いながら階段を登った。(まあ信州では、極々当たり前の風景で、さして吃驚もしない光景なのだが!)
妙音寺は階段を登り切った左側の庭の奥にあるのだが、階段の周りに咲いている水仙や、石仏などを撮っていて、気なしで居たが、ふと何気なく顔を挙げたら、何と20mくらい先に、カモシカが居るではないか!?
またしても写真に収めようと少々焦りながら、構えるのに手間取っていると、カモシカもこっちの存在に気が付き、山の林の方に戻り始めた。何とかカメラを捕えてシャッターを切ったが、これまた未熟故、ボケにボケた画像となってしまった! 此れが熊や、イノシシだったら、こんな悠長なことは出来ないが、カモシカは何度も止まって、振り返りながら、山の斜面を登って行ったので・・・・・・・・・・・・・
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【神社仏閣巡り】万蔵院の子宝豊栄神!立派な一物と胎内佛に圧倒される!(千葉市)日本には性に対する大らかな信仰があった! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】万蔵院の子宝豊栄神!立派な一物と胎内佛に圧倒される!(千葉市)日本には性に対する大らかな信仰があった!
アポ時間には、充分間に合うように家を出るようにしているが、千葉市のモノレールは乗ったことが無かったので、迷うことも視野に入れたせいで、充分早く家【習志野市】を出た。
それにしても早く着き過ぎで、1時間半も時間を潰さなくてはならなくなった。遅れるよりは遥かにいいのだが、こういう時は当てもなく、そこら辺をぶらつく様にしている。
ここら辺は未だ畑が結構残っているが、私の千葉支店勤務に比べ、随分家が出来た。八幡社を参拝し、少し行くと子宝豊栄神と書かれた洞が目に入った。何だろうと思って、近寄ったら、「おんや!まあ!立派な男根神と女陰像」が、神々しく祀られていた。
子孫繁栄とか、五穀豊穣などを願って、全国各地にこのように祀られた『陰陽神』が存在する! 東北地方には、金精信仰が盛んであり、まつりには、大きな男根神輿が練り歩き、温泉に浸した男根像に、若き女性が何人か跨って、子宝を授かるお願いをする!日本の性に対する大らかさをよく示している祭りです。
さてさて戻る時間を考慮すれば、ここら辺りで・・・・・・・・・・・・・・・
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【神社仏閣めぐり】獅子狂言『梅川』で有名な日野諏訪神社(須坂市日野中島)を参拝する!2019-03-29 [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣めぐり】獅子狂言『梅川』で有名な日野諏訪神社(須坂市日野)を参拝する!
3月も後半とはいえ、信州の陽気は未だまだ寒い。用事が早く終わったので、千曲川の近辺を回ってみた。鉄橋を超え、日野中島の方に入ってみた。鎮守の森が見えたので向かってみた。
日野諏訪神社という大きな石碑が立っていた。欅の大木が数十本境内を埋めていた。このお宮の面白いのは、境内の真ん中辺を、道路が横切っていることだと思う。この道に並行して、鳥居の前と、神社の裏手に道路が走り、また、鳥居に向かって、左手に道路があり逆Eの字状になっている。それ程広い道ではないが、忙しない神社だ。
村山の鎮守の社である。祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと) 建物は本殿と祝詞殿、渡殿、拝殿、拝殿向拝。由緒・古事不詳。拝殿造営は天保12年9月、この時社地六畝七歩。
〇明治8年12月27日、社号を諏訪社から河東村山神社と改め許可された。
〇明治39年5月16日村山大火災のため全焼したが、御神体は無事であった。
〇明治41年12月21日、高梨神社を合せて社号を日野諏訪神社とした。
〇昭和11年6月1日、高梨神社が分離し、昭和16年11月に新しく神社境内を約480坪に広げ、社殿、鳥居等を完成した。
案内板が一つ境内にあるが、これは当社で行われる須坂市指定無形民俗文化財「獅子狂言・梅川」(昭和50年4月1日指定され昭和60年9月設置)についての看板である。寄進者 黒岩とよ・弟黒岩義国による石造獅子一対が昭和58年4月吉日に奉献されている。
この神社の次の特徴は何といっても「神殿」の屋根の上の「千木<チギ>」と「堅魚木<カツオギ>」です。「千木」は、屋根の上に交差して突き出た2本の柱。「堅魚木」は屋根の上で棟木<ムナギ>と直角に並べられている木材のことです。
この二つは神社のシンボルとされていますが、須坂市にある神社では、これらが無い神社が殆どです。
千木の頂部を地面と水平に切ったものを「内削ぎ<ウチソギ>」地面と垂直に切ったものを「外削ぎ<ソトソギ>」というそうで、外削ぎの「日野諏訪神社」は男神を祀っていることを表しています。(内削ぎは女神を祀る)
堅魚木は形が鰹節に似ていることからその名がついたといわれていますが、その数は神社によって違くて、「偶数は女神」「奇数は男神」を祀っている事を表しているのだそうです。
千木と堅魚木は・・・・・・・・・・・・・・・・
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記事引用 須坂のお宝
https://www.city.suzaka.nagano.jp/otakara/search/item.php?id=774
須坂市探検マップ
http://www.suzakamap.com/tanken/page.php?_id=87
画像元 小生オリジナル
画像引用 日野諏訪神社祭礼 獅子狂言 「梅川」 【SUZAKAPRPV】 ほんもの須坂
【神社仏閣めぐり】お滝不動尊の見守る足元から湧き出る貴い水は海老川の源水! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣めぐり】お滝不動尊の見守る足元から湧き出る貴い水は海老川の源水!
御滝山金蔵寺は千葉県船橋市金杉にある真言宗豊山派の寺院で、御滝不動尊と呼ばれている。吉橋大師八十八ヶ所巡りの第58番目札所でもある
習志野市に住んでいるが、滝不動の傍を結構通っていたので、どんなところかと思って、本日参拝と相成った。隣に公園があって、静かな雰囲気の場所だった。山門を潜ると、鬱蒼とした森になっていた。澄んだ空気を吸いながら進むと池があり、その先に仁王門があり、その右脇を下ると、不動尊が立たれており、当寺の名前にもなった「滝」が落ちている。
仁王門まで戻れば、そこから先は、諸堂が立っており、新しく建てられた様な堂や、創建当初からあるような古いお堂もある。境内はそれ程広い訳でもないが、参拝者は小生1人しかおらず、ゆっくりと諸堂を巡ることが出来た。
御滝不動尊の起源については、諸説伝えられているが、一般的に広まっている話によると、創建は、1423年(応永30年)。現在の境内付近は夜も明るくなるほど輝き付近の村人を恐れさせていたと言われ、応永13年(1423年)正月に、越後国から常陸国の守護大名佐竹義仁に招かれ、通りかかった能勝阿闍梨がこれをあやしく・・・・・・・・・・・
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参考 ウイキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%94%B5%E5%AF%BA_(%E8%88%B9%E6%A9%8B%E5%B8%82)
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【神社仏閣名所旧跡めぐり】薄昏時の山王坊日吉神社遺跡を決死の覚悟で散策する!<青森県五所川原市> [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣名所旧跡めぐり】薄昏時の山王坊日吉神社遺跡を決死の覚悟で散策する!<青森県五所川原市>
小説「津軽」の像記念館を後にして、339号線を南下する。どこへ行くかは例によって不明。行き当たりばったりの旅。唐川城跡展望台というのがあったので上ってみた。更に339号線を南下。12号線との合流点を過ぎて暫く行くと、赤い鳥居が見えたので、左折し、なおも走ると、「山王坊日吉神社遺跡」の案内板が目に入ってきた。どうやらその昔、この地には、大きな寺院があったようだ。
【山王坊・日吉神社の古記録】
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参考および一部画像 五所川原市観光情報
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【神社仏閣名所旧跡めぐり】倉科山妙音寺 民家がそのまんま寺院になったのか!?当然の疑問を生じる!謎だなあ!? [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣名所旧跡めぐり】倉科山妙音寺 民家がそのまんま寺院になったのか!?当然の疑問を生じる!謎だなあ!?
千曲市の森の「1目1万本の杏」を見に行ったあと、「倉科」の方にも杏があると聞いて、行ったのが最初だった。見どころも結構あり、以来山間にある小さな集落だが、何回か音連れた。ある時、例によって、行き当たりばったりで、車を転がしていたら、山の際に、1軒の古い民家があった。その入り口に、「クマ注意!」などと、物騒な案内板などが立ててある。まあこんな山際じゃクマも出るわなあ!」☜(今は山際などでなくとも、一般の民家の庭先辺りにも平気で出るようになった!)等と思いながら、車を降りてみたら、階段の際に「倉科山妙音寺」と書いてあるではないか!? 「へえー!? お寺なんかい!?」と思いながら、「それじゃあ!行ってみるしかないわい!?」と思い、階段を登った。
「どう見ても普通の民家だわなあ!」 お寺らしきものと言えば、入り口の上に「山科倉」と掲げられていることぐらいか。「中に入れるのかな!?」と思い、戸をスライドさせたら開いた。中は正しく・・・・・・・・・・・
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【ご詠歌】
くらしなと 思えばいずる 明星の ひかり田水に 浮かむ星影
参考 信濃33観音札所めぐり
http://shinano33.com/hudasyo/index.html
画像 小生オリジナル
【神社仏閣めぐり】絶世の美女!小野小町を祀る小町堂!(秋田県湯沢市)朱塗りの可憐なお堂が印象的! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣めぐり】絶世の美女!小野小町を祀る小町堂!(秋田県湯沢市)朱塗りの可憐なお堂が印象的!
盛岡赴任から、早くも2年近く経った。この間、単身赴任でもあったので、休日の殆どを、神社仏閣名所旧跡めぐりに費やした。その大部分は、北東北3県に集中していたので、もうそろそろ転勤かも知れないと思い、今度は南東北3県を集中的に攻める(!?)ことにした。
まず最初は、山形県に狙いを定めた。やはり転勤となると、再び東北を訪れるのも大変になる。盛岡にいる間に、南東北も制覇しよう! そんな訳で、山形は、2泊3日で4回日程を組んで神社仏閣を中心にまわった。同じ道を通るのも詰まらないと思い、都度コースを変えたのだが、出羽三山に向かった時は、盛岡☞雫石☞大仙、ここから13号線に入り南下。
横手に出て、新庄に向うべく、13号を走り続けた。
雄勝と言うところに出て、奥羽本線の踏切を渡って、暫く走った先に、真っ赤なお堂が見えた。なにか宇治の平等院鳳凰堂を小さくしたような形だった。なんだろうなあと思い車を停めて行ってみた。ここは秋田県湯沢市大字小野字小町と言う地籍で、あの才色兼備の歌人・小野小町が生まれ、育った地として伝わる「小町の郷」という事が分った。その小野小町霊を祀るために建設されたのがこの「小町堂」だ。平成7年(1995)に再建され、艶やかな朱塗りの堂が6月には芍薬の花で彩られる。6月第2週におこなわれる、小町まつりの会場になっている。
小野小町の生誕地と言われている集落にあるこの小町堂は、もともと「芍薬塚(しゃくやくづか)」を祀っていたのであるが、「小町神社」が老朽化したことから、新たに小町を偲ぶ御堂としてつくられたものだという。
日本では、クレオパトラ、楊貴妃と並んで、世界三大美人の一人と云われる小野小町と、深草少将の恋物語の舞台となった場所とされ、江戸時代の紀行家、菅江真澄(東北の観光地を回るとよくこの名前を記した案内板がある)が小野を訪れており、小町堂の裏にはそのことを記した看板も立っている。
深草少将は小野小町にまつわる「百夜通い(ももよがよい)」の伝説に登場する人物。舞台は平安時代初期の京都。欣浄寺(京都市伏見区)に深草少将の屋敷があり、小町の住む山科の小野の里(隋心院)まで5キロの道を99日通い続けたが、最後の夜大雪のため、思いを遂げず死んだとされる。京都の山科には、今も、深草少将が小町のもとへ百夜通いしたという通い道が残っている。
秋田県の伝説では、小野小町は、大同4年(809年)出羽国福富の荘桐の木田(秋田県の雄勝町小野字桐木田)で生まれた。 大変美しく、幼少より歌や踊り、琴、書道に通じ13歳頃、都にのぼり、都の風習や教養を身につけ、その後、宮中に任へ、容姿の美しさや才能の優れていることなど、多くの女官中並ぶ者がないといわれ、時の帝からも寵愛を受けた。
後に宮中の生活に嫌気がさし、36歳頃故郷である小野の地に戻るが、深草少将は小町を追い身分を捨て、郡司代職として小野へ向かい、小町に想いを伝える。小町の返事は、百夜続けて自分の元に通い、亡き母の好きだった芍薬を植えて欲しいという。小町が少将を避けたのは疱瘡を患い百日経つ頃には回復すると思って期間を設けたという。少将は百夜目に橋と共に森子川に流されて亡くなってしまったという。小町は少将が仮の宿としていた長鮮寺に住んで92歳まで少将を弔って暮らしたとされる。
小町堂は朱塗りで、平等院鳳凰堂を模して造られた鮮やかな建物となっており、毎年、芍薬の花が咲き誇る6月の第2日曜日に小町を偲び、小町まつりが行わる。小町まつりは、宵祭と本祭の2部に分かれており、どちらも小町堂を舞台に盛大に行われ、平安の世へタイムスリップしたような気持ちを味わえるお祭りとなっている。
その小町まつりの際、年に1度だけお堂が開けられ、木彫りの小町像を見ることができ、そのご神体を収める厨子は、大木の空洞を生かして作られている。明治頃の写真によると、芍薬塚として小町神社があったのが伺える。この小町神社に収められていたご神体、木彫りの小町像は、明治40年頃に熊野神社に祀られ、その後、昭和28年に建立された旧小町堂に祀られ、平成7年、現在の小町堂へと収められた。
小町堂の姿は時代を重ねるごとに変わっていきましたが、深草少将の一途な想いを表すかのように、今も同じ地にある。
百日通い伝説は、京都の隋心院にもあり、何か混同されているかのような感じである。少将が京都で死んだという説を取れば、ここ雄勝に小町を追ってくることは不可能という事になる。いずれにしても美人故の混同(ミステリー)という事にしておこう!
【小野小町 おののこまち 生没年不詳】
出自不詳。『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右(古)姫云々」とあり、『小野氏系図』には篁の孫で、出羽郡司良真の女子とあるが、いずれも定かではない。ほかに出羽守小野滝雄の子とする説などがある。経歴等も明らかでないが、仁明朝(833~850)・文徳朝(850~858)頃、後宮に仕えていたことは確からしい。「小町」の名から、姉と共に仁明天皇の更衣(または中臈女房)であったと見る説があり、また『続日本後紀』承和九年(842)正月の記事に見える小野吉子(仁明天皇の更衣とみられる)と同一人、またはその妹とする説がある。
古今集・後撰集の歌からは安部清行・小野貞樹・僧正遍昭・文室康秀との親交が窺え、また「小町が姉」の歌が見える。
家集『小野小町集』に百余首の歌を伝える(異本系は七十首足らず)が、後世の他撰であり、他人の作が混入している。確実に小町の歌と言えるのは古今集所載歌十八首のみとも言い、あるいはこれに後撰集の四首を加える論者もいる。六歌仙・三十六歌仙。古今集仮名序には「いにしへの衣通姫の流なり、あはれなるやうにて強からず、いはばよき女のなやめるところあるに似たり」と評されている。
出羽の国に生まれ、それが京の都に出て、仁明天皇の寵愛を受けるところまで出世(!?)するのだから、これはもう大したものだといわざるを得ず、如何に美人だったかを想像するほかない。百代通いの逸話や、没した地が、山科や雄勝など、どちらか解らない(混同している?)のも、美人ゆえのミステリーなのかも知れない。しかし地名迄、大字小野字小町と付けられては、この雄勝で没し、深草の少将の霊を慰めたという説の方が相応しいという気がする。
秋田も山形も結構多くの地を訪れたが、もう一か所小野小町の生誕地と名乗っていたところがあったのだが、それが・・・・・・・・・・・・・・・
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小町祭り(あきた元気ムラ!秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイトより)
https://redrb.heteml.jp/park/komachidou20160816.html
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/komati.html
秋田県観光総合ガイド あきたファン・ドッと・コム
https://www.akitafan.com/pages/tourism
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【神社仏閣めぐり】普代村「鵜鳥神社」を参拝する!宮司さんに「曰くいわれ」についてご高説を戴く! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣めぐり】普代村「鵜鳥神社」を参拝する!宮司さんに「曰くいわれ」についてご高説を戴く!
国道45号線を、太平洋を右に見て北上する。すると普代村という案内板があり、暫く行くと駅があったので車を降りてみた。「ふだい」という名前に興味を持った。「譜代大名」の「ふだいだよなあ!?」 駅はヒッソリしていて、人の気配はない。さてさて今普代村に立っているが、この先どうするか、例によって、行き当たりばったりの旅、何処へ行くか自分でもわからない。「宮古は既に行ったしなあ!」
駅の案内板には、「鵜鳥神社」と書かれてあったので、「よし!ここに行ってみよう!」と思った。普代村中心地から北上し、適当に車を走らせていたら、国道45号線脇に大きな鳥居が現れた。鵜鳥神社(うのとりじんじゃ、うねどりじんじゃ)は、藩政時代には卯子酉神社と呼ばれていた。分霊神社も遠野市の卯子酉様等11社以上存在する。
この鳥居を潜り車で、10分で鵜鳥神社(遥拝殿)に着く。また、遥拝殿山門から徒歩で参道を登ること15分、卯子酉山山頂付近に本殿がある。縁結び、安産祈願、海上安全、豊漁の神として古くから岩手県内はもとより他県まで広く尊崇されている。本殿の先にはお岬様と呼ばれる石の祠があり太平洋を一望できる。古くは海上からの目安であったと言われている。
【由緒】
義経北行伝説のコースの一つとされる。伝説では、史実にて義経主従が落命したとされる平泉(1189年、衣川の戦い)から密かに脱出し、翌年に辿り着いたこの地で「七日七夜にわたって、海上安全、武運長久、諸願成就を祈り、社殿を建立し、祭典を執行するよう命じた」と伝えられている。
【歴史】
開山は大同2年(807年)とされる。奥宮とも呼ばれる本殿は寛政4年(1792年)と明治35年(1902年)に2度火災に遭い、神殿は明治45年(1912年)に、拝殿は昭和8年(1933年)に新築された。
この地方に伝わる源義経北行伝説によると、蝦夷地を目指す途中の文治5年(1189年)この地を訪れた義経は卯子酉山で金色の鵜が子育てをしているのを見て神鳥であると思い、七日七夜にわたり海上安全、武運長久、諸願成就を祈ったところ、「汝の願いを聞き届けよう」との神のお告げがあり、感謝した義経は鵜鳥大明神として山頂に社殿を建立して祀り、翌年から祭典を執行する様命じたと言われ、現在も旧暦4月8日に例大祭が行われている。
この例大祭でも奉納される鵜鳥神楽は宮古の黒森神楽とともに、岩手県沿岸部で「北の鵜鳥、南の黒森」と呼ばれ、隔年で交互に北回り、南回りの巡業が行われています。国の無形民族文化財に指定された。
遥拝殿は、独特の形をしており、見方に依れば、古民家風の建物みたいな独特の形であった。中に入り、参拝していると、男の方に声を掛けられた。普通の格好をされていたので、ご近所の方かと思ったが、どうやら宮司さんであった。神社の由緒・お神楽、義経伝説などのお話を聞かせて戴いた。
話の途中で、「ちょっと待っていてください」と宮司さんが、住居に戻られた。暫くすると、黄色の表紙のかなり分厚い本を持って戻ってこられた。「いろいろな神社やお寺を巡っておられるようなのでこれを差し上げます」と仰られた。鵜鳥神社の由緒・歴史などが、記された宮司さんがお書きになった貴重なご本であった。丁重にお礼を申し上げて鵜鳥神社を後にした。
相も変わらずの行き当たりバッタリの「みちのく一人旅」の悲しさ、格好としては一応どうにかなったのであるが、行ったのは「遥拝殿」であって、今回も・・・・・・・・・・・
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https://www.jaiwate.or.jp/shin-iwate/shiniwate/areamap/kuji/unotori_jinja
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【神社仏閣名所お旧跡巡り】異空間「三所神社」不思議な神社だった! [神社仏閣めぐり]
お茶の産地として名高い朝宮の氏神として祭られていますが、詳しい歴史はわかっていません。社殿は境内の最も奥にあり、桁行3間、梁間3間の切妻造とし、正面に1間の向拝を付属させています。建物全体の構造は神社の建築様式でも最も一般的な三間社流造と良く似ていますが、切妻造としているところがこの神社の一つの特徴といえます。
この建物は、江戸時代中頃の宝永5年(1705年)に建てられたことが棟札からわかり、細部の彫刻や装飾にも華やかで独特の意匠を凝らし、信楽の近世神社建築を代表する建物として指定されました。またこの神社では、神社の祭礼や村の取決めを行うために氏子が構成した自治組織(宮座行事)が現在でも残っており、民俗学的に中近世の「ムラ」とその様子を伝える貴重な資料として、町の文化財に指定されています。
この神社は、特異な建物がなんとなく記憶に残っていたのだが、その名前や、何処へ行った時に偶然行ったのか記憶に残っていなく、例の私の撮った画像の雑多なホルダーを幾ら探してもなかったのだが、本日偶然に・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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数こそ少ないが鮮やかな紅葉・欅の黄色い色どりの勝善寺点描!悪ガキ時代の想い出! [神社仏閣めぐり]
数こそ少ないが鮮やかな紅葉・欅の黄色い色どりの勝善寺点描!悪ガキ時代の想い出!
勝善寺は我が家の真正面にある寺である。年少の頃は、この勝善寺の境内が格好の遊び場で、我々ガタク坊主は連日ここで遊んだ。当時の勝善寺は瓦葺で、ガタク坊主たちは、あろうことか、石を放り投げて、屋根の上から、その石がカランコロンと落ちてくることに狂喜(!?)した。ご住職は余りのガタク振りに嘸かし冷や冷やしただろう! そして本堂前の空き地(境内)は、格好の野球場となった。夕食も忘れて暗くなるまで遊んだものである。<現在は鐘楼が建っているが当時はここではなく、欅の大木がある岡の上に鐘楼跡はあった>50年も過ぎた今となっては、よくぞこんな狭いところで、野球など出来たものだと思う。軟球でやったが、レフト方向は、塀を境にして、道路に接近していたので、ファールが、道路の東側にあったお宅のガラス戸を突き破って、割ってしまうことが、度重なってしまった。その都度わが親父は、弁償し、謝りに行ってくれました。
冬は鐘楼跡があった岡が、格好のスキー場(!?)になった。スキーと言っても、今のようなスマートなものではなく、竹を割って、先を火で炙り、適度に曲げた「竹スキー」だった。その竹スキーを板の下に取り付けた橇も作った。現在とは違い、そういうものは、自分たちで工夫して全て自分たちで作った。(臥竜公園の池も今とは違って全面結氷した。我々は下駄スケートで滑りに行ったものだ)今は下校後の小学生の遊んでいる姿は滅多に見られないが、我々の頃は、毎日徒党を組んで遊んだものだ。(石投げ合戦とか言って、石を投げあったような無茶な遊びまでやった)勝善寺は、そんなことで、(お寺側の迷惑は置いといて)非常に親しんだお寺だった。長じて、神社仏閣名所旧跡めぐり好きになったのは、この勝善寺が大いに影響していると思う。
さてさて前置きが長くなったが、今回は勝善寺の紅葉編である。10本近くある大欅の黄色、また数こそ少ないが、真っ赤な紅葉が鮮やかだったので、撮影したものである。写真を撮っていたら、ご住職が出てこられ、辺りを掃き清めておられた。このご住職は、私より2学年上だったが、まさか自分のお寺の屋根に石を投げる訳にもいかず、野球をしてご近所の窓ガラスを割る訳にもいかず、従って我々の悪ガキ=ガタク坊主の輪に入らなかったので、一緒に遊んだ記憶はないが、いまシラバッくれて、風流などと紅葉を撮っている親父がその時の悪ガキの1人だったとは気が付くめえ!はっはっは! いやはや50年振りに謝っておこう! 自宅の前のすぐ近くのお寺ではあるが、我が家の菩提寺ではなく、2・3km離れた、これまた、磯部六ケ寺の流れを汲む「譜願寺」が我が家の菩提寺である。この2寺も、凄く規模の大きなお寺で、人口52000人の市にはしては、不釣り合いな程の大寺である。(他に井上に浄土宗の県内最古と言われる同規模の大寺の浄運寺が存在する!) 奈良県宇陀市にある墨坂神社の流れを汲む墨坂神社が2社あることも不思議と言えば不思議だ! 須坂には「何かある!」というのが小生の持論である。
【柳島山勝善寺について】
柳島山という山号をもつ勝善寺は浄土真宗大谷派の名刹で正治元年(1199)にその柳の文字のとおり、現在の長野市柳原中俣(水内郡中俣村)に創建された。開基は清和源氏の流れ井上源氏の血をひく釈明空。明空は親鸞上人の直弟子で6人の高僧のひとりである。この6人の高僧たちの寺を「磯部六ケ寺」というが市内には・・・・・・・・・・・・
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引用
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須坂市公民館本館ブロック地域づくり推進委員会 発行
平成15年12月発行 平成18年3月改訂
「ふるさと歴史マップ」穀町・上町・本上町・上中町 より
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【神社仏閣めぐり】お滝不動尊の見守る足元から湧き出る貴い水は海老川の源水! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣めぐり】お滝不動尊の見守る足元から湧き出る貴い水は海老川の源水!
御滝山金蔵寺は千葉県船橋市金杉にある真言宗豊山派の寺院で、御滝不動尊と呼ばれている。吉橋大師八十八ヶ所巡りの第58番目札所でもある
習志野市に住んでいるが、滝不動の傍を結構通っていたので、どんなところかと思って、本日参拝と相成った。隣に公園があって、静かな雰囲気の場所だった。山門を潜ると、鬱蒼とした森になっていた。澄んだ空気を吸いながら進むと池があり、その先に仁王門があり、その右脇を下ると、不動尊が立たれており、当寺の名前にもなった「滝」が落ちている。
仁王門まで戻れば、そこから先は、諸堂が立っており、新しく建てられた様な堂や、創建当初からあるような古いお堂もある。境内はそれ程広い訳でもないが、参拝者は小生1人しかおらず、ゆっくりと諸堂を巡ることが出来た。
御滝不動尊の起源については、諸説伝えられているが、一般的に広まっている話によると、創建は、1423年(応永30年)。現在の境内付近は夜も明るくなるほど輝き付近の村人を恐れさせていたと言われ、応永13年(1423年)正月に、越後国から常陸国の守護大名佐竹義仁に招かれ、通りかかった能勝阿闍梨がこれをあやしく・・・・・・・・・・・
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参考 ウイキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%94%B5%E5%AF%BA_(%E8%88%B9%E6%A9%8B%E5%B8%82)
画像 オリジナル
【神社仏閣めぐり】日本最古の官立寺!聖徳太子創建の四天王寺に参拝する! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣めぐり】日本最古の官立寺!聖徳太子創建の四天王寺に参拝する!
四天王寺は、中学の社会科で、① 聖徳太子の創建 ② 四天王寺式伽藍配置 ③ 最古の官立寺ということを習い、頭に残っていたので、関西に転勤になったのを機会に、是非行ってみたい寺の1つだった。大阪には月1回、会議で来ていたのだが、1日時間をたっぷり取って、参拝したいと思っていた。
アパートは高槻市だったので、そんなに時間が掛からないで行くことができた。五重塔が見えたので、それを目標に進んだが、南大門ではなく、本坊西通用門に出てしまった。回り込むのも、距離があるようだったので、この門から、境内に入った。
【四天王寺】
山号 荒陵山(こうりょうざん)
宗派 和宗
寺格 総本山
本尊 救世観世音菩薩
創建年 推古天皇元年(593年)
(『日本書紀』による)
開基 聖徳太子
別称 金光明四天王大護国寺
札所等 聖徳太子霊跡1番,新西国三十三箇所1番,近畿三十六不動尊1番,法然上人二十五霊跡 6番,西国薬師四十九霊場16番,摂津国八十八箇所25番,神仏霊場巡拝の道 第43番,西方四十八願所44番,西山国師遺跡霊場客番,西国三十三所番外,四国八十八ヶ所霊場番,ほか。
文化財 紙本著色扇面法華経冊子5帖(国宝)ほか
六時堂(重要文化財)
絹本著色両界曼荼羅図(重要文化財)ほか
八角亭(登録有形文化財)
地図
四天王寺は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら・・・・・・・・・・・・・
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参考
① 四天王寺HP
http://www.shitennoji.or.jp/history.html
② wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA
画像 小生オリジナル (2001:02:18 京都支店在任中撮影)
【神社仏閣名所旧跡めぐり】倉科山妙音寺 民家がそのまんま寺院になったのか!?当然の疑問を生じる!謎だなあ!? [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣名所旧跡めぐり】倉科山妙音寺 民家がそのまんま寺院になったのか!?当然の疑問を生じる!謎だなあ!?
千曲市の森の「1目1万本の杏」を見に行ったあと、「倉科」の方にも杏があると聞いて、行ったのが最初だった。見どころも結構あり、以来山間にある小さな集落だが、何回か音連れた。ある時、例によって、行き当たりばったりで、車を転がしていたら、山の際に、1軒の古い民家があった。その入り口に、「クマ注意!」などと、物騒な案内板などが立ててある。まあこんな山際じゃクマも出るわなあ!」☜(今は山際などでなくとも、一般の民家の庭先辺りにも平気で出るようになった!)等と思いながら、車を降りてみたら、階段の際に「倉科山妙音寺」と書いてあるではないか!? 「へえー!? お寺なんかい!?」と思いながら、「それじゃあ!行ってみるしかないわい!?」と思い、階段を登った。
「どう見ても普通の民家だわなあ!」 お寺らしきものと言えば、入り口の上に「山科倉」と掲げられていることぐらいか。「中に入れるのかな!?」と思い、戸をスライドさせたら開いた。中は正しく・・・・・・・・・・・
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【ご詠歌】
くらしなと 思えばいずる 明星の ひかり田水に 浮かむ星影
参考 信濃33観音札所めぐり
http://shinano33.com/hudasyo/index.html
画像 小生オリジナル
【神社仏閣名所旧跡めぐり】国家鎮護の神として皇室からの御崇敬篤く、下総の国一の宮!鹿取神宮を参拝する! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣名所旧跡めぐり】国家鎮護の神として皇室からの御崇敬篤く下総の国一の宮!鹿取神宮を参拝する!
私のサラリーマンは千葉支店から始まった! 昭和45年の事だった! その後東京都内の事業所を転々(!?)として、昭和55年再度千葉支店勤務を命ぜられた! 同一事業所に赴任することは非常に珍しいことであった。57年12月に千葉支店から転任して、長野・松本両支店に勤務、平成6年に本社スタッフ部門を命じられ、平成8年! 何と三度千葉支店勤務を命じられた! 一寸例がない人事だった。お蔭で千葉県は全地区担当した。
そんな訳で、千葉県も、神社仏閣名所旧跡めぐりで、いろんなところを回った。香取神宮もそんな訳で、6.7回は参拝している。鹿取神宮は、茨城県の鹿島神宮と共に、明治以前では、『神宮』の御称号(明治以前には伊勢・香取・鹿島のみ)を以て奉祀される社格の非常に高い宮として有名である。
【御祭神】
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
<又の御名伊波比主命(いはひぬしのみこと)>
【例祭日】
4月14日 6年に一度 勅祭
創建は神武天皇の御代18年と伝えられ、祭神は日本書紀の国譲り神話に登場する経津主大神である。 下総国一の宮で、明治以前に「神宮」の称号を与えられていたのは伊勢、香取、鹿島のみというわが国屈指の名社。本殿・中殿・拝殿が連なる権現造の社殿は、鹿皮のような色をした桧皮葺の屋根に黒塗りの姿が実に美しい。また、宝物の中には、国宝の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)や重要文化財の古瀬戸横涌釉狛犬(こせとおうゆうこまいぬ)、双竜鏡(そうりゅうきょう)などがあり、国・県指定の文化財だけでも200点余を所蔵・所有している。
【御祭神経津主命の神話】
香取の御祭神 経津主大神は、出雲の国譲りの神話に出てくる神様です。はるか昔、高天原を治めていた天照大神(あまてらすおおみかみ / 伊勢神宮・内宮の御祭神)は、葦原中国は自分の息子が治めるべきだとお考えになりました。葦原中国は荒ぶる神々が争い乱れていたため、天照大神が八百万神に相談すると、天穂日命が優れた神であるということで出雲国の大国主神の元に遣わされましたが、天穂日命は大国主神に従い家来になってしまいました。次に天稚彦が遣わされましたが、天稚彦もまた忠誠の心なく、大国主神の娘である下照姫を妻として自から国を乗っ取ろうとし、天照大神の元に戻ることをしませんでした。
このようなことが二度つづいたので、天照大神が八百万神にもう一度慎重に相談すると、神々が口を揃えて、経津主神こそ相応しいと言いました。 そこへ武甕槌大神( 鹿島神宮の御祭神)も名乗り出て、二神は共に出雲に派遣される事となりました。
出雲国の稲佐の小汀に着いた経津主、武甕槌が十握剣を抜き逆さに突き立て武威を示すと、大国主神は天照大神の命令に・・・・・・・・・・
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参考 鹿取神宮HP
画像 小生オリジナル
画像元 yjimage(一部)
【神社仏閣名所旧跡めぐり】変わった名前の蟹満寺!参拝記! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣名所旧跡めぐり】変わった名前の蟹満寺!参拝記!
例によってあてもなく車を走らせていたら、「蟹満寺」というお寺があった!
不思議な名前の寺である。その由来は、窮地にたった娘が観音に祈ったところ、かつて娘が助けた蟹が恩を返したという説話によっているというが、これは平安末期に成立した『今昔物語集』(巻16)などにある(この地域は古来「蟹幡郷」といい、この地名から変じて「蟹満」となったものか)。
本尊は銅造釈迦如来坐像(国宝)で・・・・・・・・・・
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参考
画像 小生オリジナル
画像元 yjimage
【神社仏閣名所旧跡めぐり】関山中尊寺白山神社能楽殿で能を鑑賞!ガサツなおいらとしては格調高い(!?)珍しくも文化的1日を過ごした! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣名所旧跡めぐり】関山中尊寺白山神社能楽殿で能を鑑賞!ガサツなおいらとしては格調高い(!?)珍しくも文化的1日を過ごした!
京都支店から、東北北統轄支店に転勤になり、引き続き、神社仏閣名所旧跡めぐりをしたが、当初は「源義経」のような心境で、東北には「見るべきものがあるのか」と思っていた。未だ状況も分かっていなかったから、取り敢えず「全国的に名が通っているところに行ってみよう」とおもった。そんな訳で、赴任後最初のころに訪れたのが、関山中尊寺だった。
平泉の町自体の規模は小さい。しかし中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、柳之御所遺跡、その他数多くの神社仏閣が点在する中に、生活空間が乗っかっているような町で、見どころ満載で全く飽きない。そんな訳で平泉は、赴任中何回も訪れた場所の1つになった。
白山神社は中尊寺鎮守のひとつで,境内の北方にある。かの有名な金色堂の裏手になる。赤い鳥居の手前には、大きな看板があるので解りやすい。この赤い鳥居を潜り、砂利の参道を進んでいくと、最初に目に入るのが、この能舞台(能楽殿)である。舞台の周りは、かなり広いスペースになっていて、今日は人が沢山集まっている。本日は奇しくも能が演じられる日の様だった。小生の神社仏閣名所旧跡めぐりは、予め目的地を決めてある訳ではなく、行き当たりバッタリであるのだが、こうして思い掛けないイベント(!?)に遭遇することが多い。
白山神社はまるで能舞台が中心のような感じで、能舞台の先に白山神社の拝殿があります。能舞台(白山神社能楽殿)は、重要文化財にも指定されていて、中尊寺の重要な施設の1つとなっています。
舞台の背景には、「鏡の松」と呼ばれる松が描かれています。現在能舞台は,嘉永2年(1849)の焼失後,同6年(1853)に再建されたもので、「鏡の松の絵」もそれなりの歴史に耐えてきたので、年季が入っており、ところどころ色が褪せているが、そのことが反って茅葺きの壮大な能楽殿や舞台を・・・・・・・・・・・・・・・
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参照 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/186086
画像 小生オリジナル
一部 画像元 yjimage
神社仏閣名所旧跡めぐり】薄昏時の山王坊日吉神社遺跡を決死の覚悟で散策する!<青森県五所川原市> [神社仏閣めぐり]
神社仏閣名所旧跡めぐり】薄昏時の山王坊日吉神社遺跡を決死の覚悟で散策する!<青森県五所川原市>
小説「津軽」の像記念館を後にして、339号線を南下する。どこへ行くかは例によって不明。行き当たりばったりの旅。唐川城跡展望台というのがあったので上ってみた。更に339号線を南下。12号線との合流点を過ぎて暫く行くと、赤い鳥居が見えたので、左折し、なおも走ると、「山王坊日吉神社遺跡」の案内板が目に入ってきた。どうやらその昔、この地には、大きな寺院があったようだ。
さてどうするか、もうかなり陽は傾いており、鎮守の森などという規模ではなく、かなりの広さを伺わせたから、行くにしてもかなり時間を取られ、陽も暮れる心配もあったのでどうするか迷った。しかしこの地を再び訪れる保証もないので、意を決して前へ進む事にした。
案内板のその先は、二股になっており、左側には赤い鳥居が見えた。一寸変わった鳥居であるが、この形には見覚えがあった。京都支店在勤中に訪れた滋賀県の日吉大社と同じである。以下案内板に書かれていた内容と五所川原市の観光情報HPから掻い摘んで記します。
山王坊遺跡は十三湖北岸、山王坊川が流れる沖積地の奥まった山間部に立地する中世宗教遺跡です。遺跡は山林に囲まれた日吉神社の境内地となっており、一帯は「山王坊」と呼ばれてきました。「山王」とは滋賀県大津市坂本にある日吉大社に祀られる大山咋神(おおやまくいのかみ)の別名であり、境内の入り口には日吉大社を象徴する山王鳥居が参拝者を迎えてくれます。
言い伝えでは、山王坊には阿吽寺があったとか、南部氏によって焼き打ちにあったともいわれ、一帯は古来より霊地として大切に守られてきました。これまでの発掘調査によって、中世における神仏習合を示す礎石建物跡(建物の土台石)が極めて良好な状態で保存されていることが明らかとなり、平成29年2月に国史跡指定となりました。
【山王坊・日吉神社の古記録】
現在、日吉神社の祭神は大山咋命(おおやまくいのかみ)で、創建年は不明。文献史料に関しては山王坊に関する中世の同時代史料はなく・・・・・・・・・・・
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参考および一部画像 五所川原市観光情報
http://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/sannobo.html
画像 オリジナル
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【神社仏閣めぐり】青銅坐像として日本一の昭和大仏もおわす青龍寺に車中泊する! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣めぐり】青銅坐像として日本一の昭和大仏もおわす青龍寺に車中泊する!
青森市には、5・6回訪れた。「ねぶた祭」を見に行ったのが最初だった。その後竜飛岬や、三内丸山遺跡・八甲田山などに行ったが、青森には、支店があったから、その都度青森市を起点とした。何年の事か、記憶にないが、8月に入り、いよいよ東北地方に夏まつりの季節がやって来たとばかりに、張り切ったのはいいが、如何せん欲張り過ぎたことがあった。先ず盛岡の「さんさ踊り」を半日見て回り、その後高速道路をぶっ飛ばし、15:00頃八戸着。「八戸三社祭り」を堪能。この祭りも日本一の山車が売りで、豪快な祭りである。19時に切り上げ、盛岡に帰る積りであったが、明日は「青森のねぶた祭」に行こうという気になったので、急遽これから青森に移動することにした。
まあ!何時もこんな調子で、急遽決まることが多いので、予めの準備というものがない。大体の見当で、北西に向けて車を走らせた。そのころは、現在のようなカーナビというものが未だ存在しない頃で、地図と、道路標識を頼りに、車をぶっ飛ばした。
青森についたのは、午前2時半ころだった。流石にホテルを確保する訳にはいかなかったので、さてどうするかということになったのだが、前に1・2回行ったことのある青龍寺が頭に浮かんだ。まあこんな時刻に境内に入っていいのか迷ったが、広い境内の一角に車を停めさせて戴いた。
この寺の特徴は、何といっても、青銅坐像では日本一の「昭和大仏」である。傍に大仏の気配を感じ、車中泊するというのも、中々出来ることではないと思うが、辺り構わず直ぐ寝れるのが小生の特技(!!??)である。まあ転勤に託けて、それぞれの場所で、神社仏閣名所旧跡巡りをしてきた小生だが、この何処でも直ぐ寝れるという特技あればこそ出来ることだと思っている。
【高野山青森別院 全佛山青龍寺】
昭和59年に造立された昭和大仏は、青銅座像としては日本一大きな大仏です。その高さは21,35mと奈良や鎌倉の大仏をも凌ぎます。胎内2階に戦没者慰霊の碑を祀り、戦没者の慰霊と世界平和、そして人々の心を正しく導く仏法興隆の願いが込められています。
昭和大仏の姿を見ると、頭に宝冠をかぶり、胸に瓔珞を飾り、腕には臂釧や腕釧などの装飾品を着け、膝の上で左掌を下に右掌をその上に重ねて左右の親指の先をつける「法界定印」を結んでいます。これは真言密教の根本教典の・・・・・・・・・・・・
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2002年8月3日~4日 東北北統轄支店勤務時撮影
参照・引用
http://showa-daibutu.com/guide/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A7%E4%BB%8F/
画像 オリジナル
【神社仏閣めぐり】長寿の国信州佐久の成田山薬師寺のピンコロ地蔵を参拝する! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣めぐり】長寿の国信州佐久の成田山薬師寺のピンコロ地蔵を参拝する!
信州には「ピンピンコロリ」という言い方がよく会話の中に出てきます。ご存知のように、信州は、「平均寿命日本一」の県としてつとに有名です。「ピンピンコロリ」の意味は、とにかく丈夫で、長生きして、お迎えの時までは、「ピンピン」と元気で過ごし、死ぬ間際は、寝たきり状態ではなく、「コロリ」と、苦しまず、一瞬であの世にいきたいという願望を表しています。
信州人の平均寿命は、男81.75歳、女87.67歳で、日本でも1位、2位を争う長寿県となっています。平均寿命とは別に、「健康寿命」という概念があります。「元気で過ごせる寿命」という意味で、こちらの概念の方が、我々にとって重要な意味をもっています。信州人の、健康寿命は、男71.45歳、女74.73歳で、平均寿命と比べると、男10.3歳、女12.9歳という差が生じています。平均寿命は飛躍的に伸びてきた日本ですが、その実態をよく見ると、何処かに違和感(持病)を持っていたり、中には、寝たきりで過ごしている人も多いことが解ります。折角永らえた命、年を重ねても、自力で生活出来るようにしたいものである。
健康状態を維持するには、1にも2にも、「規則正しい生活習慣の保持」に尽きると思う。①バランスの取れた食事(偏食の回避・過食=肥満回避・過度の飲酒の回避、) ②運動(歩くことで可)☜体温の保持 ③睡眠(副交感神経優位の状態<修復モード>を確保) ④交感神経優位の状態の継続状態(過労・働き過ぎ)の回避、⑤過度のストレスの回避(交感神経優位の状態の継続の回避) ⑥咀嚼(よく噛んで食べる)⑦化学合成物の回避(合成界面活性剤使用の生活用品<洗剤、洗浄剤、化学合成薬剤,化粧品、化学合成建材,化学合成繊維などなど>、⑧ 合成食品添加物、農薬、除草剤、化学肥料の使用度合いの少ないもの、なるべく使っていないものを摂取する。⑨電磁波、紫外線対策などなどが挙げられるが、現在における生活は、空気を吸っても、水を飲んでも、化学合成物が生体内に入ってしまう劣悪な生活環境にあることは残念ながら事実である。空気・水でさえそうなのであるから、その他については、それ以上に深刻な状態である。そんなことを言っていては、我々の生活は1日たりといえども成り立たなくなる。そういう事情を勘案して、⑩として、デトックスの項目を入れておきます。
さて信州における長寿の要因について、⑪として、「生甲斐をもつこと」ということを強調して置きたい。それは趣味であったり、やりたいことを遠慮なくやるということでいいのですが、ここで信州でよくみられる風景(?)を挙げておきたいと思います。信州は農業県ですが、90を過ぎても、リンゴ畑に出て、三脚梯子に上がって、剪定や、摘花・摘果などを生き生きとしてやっているお年寄りが実に多い。婆ちゃんも負けてはいない。(農業の後継者も少ないという事情もあるかも知れないが‥) ちゃんと家族の一員として、存在を主張しているのである。また、家族も、そういう爺ちゃん、婆ちゃんを尊敬し、大切にしている。「うちの爺ちゃん・婆ちゃんは、よく畑に出て働いてくれるで助かるよ!」などと、お茶のみ話でもよく出てくる。そんな訳で爺ちゃん・婆ちゃんも、家族の中での居場所を持ち、遣り甲斐を感じているから何時までも元気でいられるのだと思う。
さて前置きが非常に長くなってしまいましたが、佐久市にある「ピンコロ地蔵」についてすこし書いてみます。
「まほろばの里」信州
信州は、県歌「信濃の国」でも歌われているように、山・川・高原・湖など自然に恵まれ、農業も盛んで、まほろばの国信州と呼ばれてきました。「まほろば」とは優れたよい所という意味で、住みやすい気候で、綺麗な水に恵まれ、多くの米が収穫されてきたことを受けて与えられた言葉です。
1、日本一の長寿県
平成17年度都道府県生命表(H19.12.17厚生労働省公表)における長野県の平均寿命は、男性第1位(H2年より1位)女性第5位(H2年より5位以内をキープ)で全国1位の長寿県です。また、平均寿命は全国1位ですが百寿率は全国22位にすぎず、且つ90歳以上の平均余命(佐久市の場合)は3,9歳で、そのうち活動余命は2、2歳ということから、なくなる直前まで・・・・・・・・・・・・
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(画像は2013年10月22日参拝した時のものです)
参考元 野沢商店街連合会HP
http://pinkoro.com/publics/index/76/
画像元 オリジナル
画像元(一部) yjimage
岩手県柴波町勝源院 !「逆さ柏ってなんじゃいな!?」と思って寄ったのが最初!その後度々訪れる! [神社仏閣めぐり]
岩手県柴波町勝源院 !「逆さ柏ってなんじゃいな!?」と思って寄ったのが最初!その後度々訪れる!
盛岡市から国道4号線を南下し、紫波町日詰のまちに至ると、右手に特徴のある鐘楼門が目に入る。曹洞宗の寺院・勝源院である。小生はこういうものが目に入ると寄ってみようと思うのである。さらに「逆さがしわ」の案内板もある。「逆さ柏ってなんじゃいな!?」とさらに興味が湧く!入母屋瓦葺の山門をくぐり本堂の裏庭園に回ってみると、なるほどと思わせる大木があった。国指定天然記念物の逆ガシワ(さかさがしわ)である。
このカシワの老大木は推定樹齢300年といわれ、主幹が地上1mくらいのところから、4本の支幹に分かれ、それぞれが地面を這うように伸びており、まるで龍がのた打ち回っているように見える。這うように伸びた後に立ち上がるという異形をなしています。まるで枝が根に見えることから逆(さかさ)ガシワと呼ばれているようです。
本来カシワは、幹が垂直に伸びて枝を張るという樹木なので、たしかに不思議な光景となっている。そのような樹態なので、支柱が至る所に巡らされている。日当たりのいいところを必要とするカシワなのに、ここでは・・・・・・・・・・・・・
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柴波町観光協会:【柴波町観光案内人】
画像 オリジナル。
一部 http://kihan5.sakura.ne.jp/sakasakasiwa.html
雨の中態々車を停めて参拝した唐松神社(秋田県協和町)後程分かった大変なこと!? [神社仏閣めぐり]
雨の中態々車を停めて参拝した唐松神社(秋田県協和町)後程分かった大変なこと!?
以前田沢湖から、阿仁軽油、能代に着。そこから五能線沿いに、59号線を北上。不老不死温泉まで行き、ここで引き返し、能代一泊、翌日伊勢堂岱遺跡、銀杏山神社、能代引き換えし、号を南下、八郎潟、入道崎。男鹿駅前ホテル泊。翌日赤神神社五社堂に引き返し、早朝6時ごろ五社堂の階段上り切った。それ等青森・秋田のぶらり一人旅の話は以前UPしました。今回はその続きでござる!
その日は、2003年10月13日。晴れ男の小生にしては、珍しく、雨降り。赤神神社五社堂の階段を下るころは、未だ傘を差さなくても歩ける程だったが、再び男鹿駅の前を通る頃は本格的に降り出した。いくら神社仏閣名所旧跡巡りを趣味とする小生だが、雨の中では、少々その気は失せる。
「しょうがねえなア!!」と思いながら、未だ9時頃だったが「あとは盛岡に帰るしかねえなア!」と頭を過る。秋田市街を抜け、13号線(奥州街道)を、仙北市に向かい走っていると、「唐松神社」という案内板が目に入ったので、車を降りることにした。(だから小生の辞書には<探す>という文字はない。着いたところが目的地だ。いつもそうなのだが、小生の「ぶらり一人旅」は、予定を立てる訳でもなく、「曰くいわれ」も調べるでもなく、常に行き当たりばったり、風の吹く儘・気の向く儘、の「西東」。まあ言うならば、「男はつらいよの寅さん」の旅である。事実この2泊3日の秋田・青森のコースも、行く先もホテルも予約したところなし。偶々車を走らせて、目に入ったホテルに飛び込みだ!もし取れなければ車中泊覚悟。この唐松神社も、偶々案内板が目に入ったから寄ってみただけのお粗末。
御祭神は饒速日尊。物部氏の遠祖。参道より数段下ったところに社殿がある一寸変わった独特の配置。代々の宮司が一子相伝で継承してきた文献が『物部文書』。蘇我氏との対立で敗れた物部守屋の子・那加世(なかよ)が、秋田に落ちてくる際に持参した古代史料の写しとされる。昭和58年(1983)に一部公開、大部分は依然として未公開。同書によると物部氏の発祥地は東北。饒速日尊は鳥海山に降臨。10種の神宝を奉じた場所が唐松神社である。 ※ 日本列島パワーポイントの北限<白山と富士山を結ぶ線の真ん中を長野市の皆神神社を経由し、さらに北に延ばすと、この唐松神社に行き付く!)また逆方向の西南の方に線を引っ張ると、なんと伊勢神宮に行き当たるのです! という訳で、この唐松神社には、窺い知れない何かを内包しているのである!
ニギハヤヒが鳥見山(鳥海山)に降臨。逆合川の日殿山に「日の宮」を造営(唐松神社の起源)。御倉棚の地に一時居住(大仙市協和船岡字合貝の三倉神社がその跡)。
物部守屋の戦死後、その子の那加世(なかよ)が蝦夷の地に逃れてきて、日の宮の神官になった。唐松神社宮司家はその子孫。
?※引用参考元 物部文献
ニギハヤヒが天降りの際に持ってきた十種(とくさ)の神宝(かんだから)のうちの5つ(奥津鏡、辺津鏡、十握剣、生玉、足玉)が残されているという。
参考文献:『日本のまつろわぬ神々』 新人物往来社編 新人物往来社
饒速日尊(にぎはやひのみこと)が鳥見山に降臨、唐松山を御神体とする神社を創建。
心の中の灯火が蘇り安堵感に包まれる。
子宝、安産。
※参考文献:『開運!日本のパワースポット案内』一個人編集部編 KKベストセラーズ
※参考文献:『日本の謎と不思議大全 東日本編』 人文社
秋田県のほぼ中央部、大きく蛇行する淀川のほとりに鎮座する唐松山天日宮 (あまつひのみや)。日本全国に8万社とも10万社ともいわれる神社のなかで、これほど異彩を放つ神社はめずらしいだろう。神社建築の枠をはるかに超えた、SF的ともいえるその神域は、なんとも不思議な気に満ちあふれている。瞠目するのは、池と築山を同心円状に配した特異なデザインと、境内一面に敷き詰められた数十万個ともいわれる自然石から生まれる造形美である。シンメトリーで構成された冷たい幾何学的秩序を、自然石のぬくもりで覆いかくし、人工的な自然ともいえる有機的な建築的秩序を形づくっている。
この7行は、
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/aki_karamatu/karamatu.htm
から引用。
しかしそんないい加減に寄った「唐松神社」は、後で調べ物をしていたら、とんでもない神社だと解って・・・・・・・・・・・・
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黄金崎不老不死温泉 海の中に同化している名物!露天風呂!名前に肖りたいものだ!
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秋田の旅 赤神神社五社堂 ? 日本の渚100選 鵜ノ崎海岸 ? 唐松神社の旅! 雨の中秋田のパワースポットを走り抜ける!
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世界最強・最大のピラミッドともいわれる「皆神山」および皆神神社の不思議!
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銀杏山神社の大銀杏に感動! 今回も走りに走ったり! 秋田・青森の「ぶらり一人旅!」
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男鹿半島の最突端、北緯40度線上に位置する入道崎で暫し休息する!
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画像元(補足画像)yjimage
【神社仏閣巡り】岩手山を背景に着飾った馬コが「チャグチャグ」と鈴を鳴らしながら田園風景の中を進む!(H14年盛岡支店勤務時撮影) [神社仏閣めぐり]
今日は6月の二週目の土曜日です。そうです2年ほど前から、休日バージョンになったチャグチャグ馬コの日です。昨年行ったので、今年はパスしようと思っていたが、2・3ヶ月前に、福岡から転勤して来た奴が、「是非行きたい」というので、付き合うことにした。昨年とは違って、蒼前神社の場所も、駐車場の状況も分かっていたので余裕を持って出発できた。今回は、出発前の、蒼前神社の様子も、パレードが終わっての神社の様子などもバッチシ画像に収めることができた。
パレードは9時半に出発した。出発5分ほど前に、絶好の撮影ポイントに移動。本日もNHKなどの全国版ニュースでも流されたと同じポイントで私も画像を撮った。そこは知る人ぞ知る、「チャグチャグ馬コ」の絶好の撮影ポイントとなっている。まず緑が多いこと。そして背景に岩手山が入ること。また幅2m位の土手状の道なので、(撮影場所は、そこより2m下の田んぼの畔道になっているところなので)パレードが丁度いい構図で収まることすなわち、「チャグチャグ馬コ」のポスターなどにも出ている「定番」の撮影ポイントなのであります。
今年は背景の岩手山には雲などもかからず全容を現していた。岩手山はまだ若干の雪を残している。蒼前神社のある滝沢村は日本で一番人口の多い村として有名だが、ご覧のように家が建て込んできて、折角の絶好のポイントも年々緑が侵食されてきている。(註撮影当時は村だったが、現在は市になっている)
パレード自体は、20分くらいで過ぎ去ってしまうのだが、彼らは約15Km先の盛岡八幡社までパレードする。ここから1km先からは・・・・・・・・・・・・
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画像元 オリジナル(平成14年盛岡支店赴任中撮影)
【神社仏閣巡り】桜の季節以外で初めて萬龍寺に行ってみた!結構色とりどり! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】桜の季節以外で初めて萬龍寺に行ってみた!結構色とりどり!
毎年桜が咲く季節は、近くの桜の名所めぐりをしているのだが、今年は何時になく桜見物の日にちが取れなくたった2日しか取れなかった。毎年同じところに行ってみるのだが、今年は端から全部回るのは無理だと判断したので、それなら一層の事、今まで行ったことのないところにも行ってみようと相成った。仁礼の妙徳山高顕寺であったり、同じく仁礼の 線の桜並木であったり、妙徳山太郎山神社附近の桜だったりした。マダマダ知らない桜があるのは嬉しかった。
さて今日は今迄何回も行っている萬龍寺なのだが、桜の散った後は、全然訪れたことがないので、傍まで行ったので、足を延ばしてみた。萬龍寺には、桜の木が境内に2本、傍に3本あり、大変立派な花を咲かせるのだが、今日のところは、葉桜になった、どちらかと言えば殺風景な・・・・・・・・・・・・・・
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画像元 オリジナル
【神社仏閣巡り】東照寺!桜の季節は過ぎてしまったが、シャクナゲや躑躅で境内は色とりどり! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】東照寺!桜の季節は過ぎてしまったが、シャクナゲや躑躅で境内は色とりどり!
桜の季節を外してしまったが、米子不動尊の傍に、お寺がある事は知っていたので、何時か行ってみようと思っていた。6日亀倉萬龍寺に行ったので、米子まで出て、東照寺に行ってみようと思った。当然櫻は散って、緑一色の境内だろうと思ったが。
この寺は、入り口のところに、大きな枝垂れ桜があり、寺の象徴になっているのですが、葉丈になっているとは言え、まさしくその名に相応しい桜の木であった。さぞかし満開の時は壮大な桜であろうと思った。来年は是非見たいと思った。
境内は、つつじや、芝桜、シャクナゲなどで、鮮やかな色どりだった。
この寺は浄土真宗であり、西輝山東照寺と称す。弘安2年(1279)、井上善明により、下野国で、開基と伝えられる。のち上杉謙信の招きにより、越後の国頚城へ移った。その後長沼城主(現長野市長沼)により、元和2年(1616)更に相之島(須坂)に移転した。元禄14年(1701)千曲川の大洪水で伽藍を流失した為、翌年米子村の名主の招きにより、現在地に移転・創建された。現本堂は安政5年(1818)の建立である。
本堂は大勢の信徒を収容できるよう、広い空間を設け、太い柱、虹梁を用いた総欅造りの豪壮な建物=間口十二間(約22m)、である。本堂の内陣と外陣を・・・・・・・・・・
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画像元 オリジナル
【神社仏閣名所旧跡めぐり】「どの道行けば、この恋を忘れることが出来ますか?♪せめて教えて? 道祖神♪♪ 亀倉「道祖神」考! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣名所旧跡めぐり】「どの道行けば、この恋を忘れることが出来ますか?♪せめて教えて? 道祖神♪♪ 亀倉「道祖神」考!
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? 花に囲まれた「庚申塔」に別れ(!?)3分も走らない距離で、今度は道祖神に遭遇した! 少し先には、白山神社鎮守の杜も目に入る。そのちょっと先は、萬龍寺だ。この農道ともいえる細い道は、神仏の集中地だ!
? 直ぐ傍には、濃い緑一色になった妙徳山が、堂々たる山容を横たえ、ここ亀倉の地は、桜こそ散ってしまったが、赤やピンクの花で満たされ、まさに春タケナワである。そんな平和な雰囲気の中に、道祖神は立っていた。
? 車を停めて、案内板を見たのだが、ただ「道祖神」としか書かれていなかった。扨てさてこれでは話が進まんぞ!そこでネットで調べてみた。以下no80rty氏がマトメたものの引用です。https://matome.naver.jp/odai/2140843638999911801
? 道祖神は、路傍の神である。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。
<出典 道祖神 ? Wikipedia>
村境や峠などの道端にまつられる,禍・悪霊を防ぐ神。旅の安全をもつかさどる。婚姻や出産の神とされることもある。地蔵・猿田彦神と習合したものも多い。さえのかみ。手向けの神。道陸(どうろく)神。出典 「道祖神とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書」
?道祖神は村落の辻や峠の境に祀られ、外来の邪悪なものを遮るという風に言われています。元は道教から生まれたという・・・・・・・・・・・・・・
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参照・引用 no80rty氏がマトメたものの引用です。https://matome.naver.jp/odai/2140843638999911801
画像元 オリジナル
【神社仏閣巡り】亀倉の細い農道の交差点に花にかこまれた庚申塔あり! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】亀倉の細い農道の交差点に花にかこまれた庚申塔あり!
早朝秋葉三社神社の春季例祭の準備で、動いた後、午後まで時間が空いたので、亀倉から米子の方に行ってみようと思い立った。先日桜を見に回ったコースだ。まあ満開だった桜も、葉桜になって、殺風景な緑一色だろうなと思い、何も期待せず出掛けた。つい10日程前に、市街地に一番近い里山は、冬の茶系の山肌だったが、一斉に芽が噴き出て、濃い緑に変化している。天候は晴れ、熱くも寒くもない快適な温度だ。
亀倉に入り、萬龍寺の方へ行ってみようと、見当をつけて走っていると、「庚申塔」と書かれた案内板が目に入った。車を停めて、案内板を見たら、「江戸時代に普及した庚申信仰にまつわる塔で、自然現象を支配する帝釈天の使者である青面天を祀っている」と書かれていた。はて!? 「青面天」ってなに!? 初めて聞いたなあ?
■その前に、そもそも「庚申」とは何?■
道教の教えでは、人間の体内には三つの霊が宿っているという。魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)である。人が死ぬと、魂(コン)は天に昇り、魄(ハク)は地下に入る。講談や映画に出てくる幽霊が最初に述べる決まり文句があって、「恨めしや~、コンパクこの世に留まりて恨みはらさずおくものか~」の魂(コン)・魄(ハク)がこれである。即ち、魂・魄がこの世にいれば死んでいないということなのであろう。
問題は、残りの三尸(さんし)と言う虫がとんでもない悪さをする。三尸は宿主が死んだ後は自由に遊び回れる存在なのだという。祭り等にも行けるから、早く宿主が死ぬのを待ち望んでいるのだ。とんでもない奴や!
そして、具合の悪いことに、旧暦で60日に一回巡ってくる庚申(かのえさる)の日に三尸は宿主の体内を抜け出せる。天に昇って天帝に宿主の日頃の行状を報告する役目も負っていて、その報告によっては寿命を・・・・・・・・・・・・・・
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http://www.ukima.info/meisho/sekibutu/kousin0.htm
http://koktok.web.fc2.com/KOZA2007/koz31/syokera.htm
画像元 オリジナル
【神社仏閣巡り】 妙徳山の中腹にある太郎山神社を参拝する!上田の太郎山神社から分祀された神が祀られている! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】 妙徳山の中腹にある太郎山神社を参拝する!上田の太郎山神社から分祀された神が祀られている!
須坂市上八町の明光寺から、仁礼の妙徳山高顕寺へ行こうと思って、車を走らせていたら、妙徳山の中腹に、白いこんもりとした部分があった。須坂市内の桜は、満開を通り越して、大分盛りを過ぎていたので、この白い一群は将に満開の状態に見えたので、予定外であったが行ってみることにした。事ほど左様に先の事を考えていない。行先が見えているところに行くのであるから迷う事がない、即ち時間的ロスはないのだが、帰宅後いろいろ調べている時に、見落としがあったり、解っていれば寄るべき所があったりして、悔しい思いをすることが多い。
さてその白い桜の塊は、すぐ傍にあるのだが、どうやって行けばよいのか、なかなか見つからない。建築用の砂利の山があったりして近付けない。やっと小道をみつけ入ってみた。桜は尾根に沿って群生していた。小道に戻って下って行ったら、そこそこ広い場所に、鳥居と狛犬丈が立っていたところに出た。「神社の跡なのかな!?」と思った。よく見ると道はここで別れていて、登りの道があったので、そっちの方に入ってみた。1人がやっと通れるような狭い道だ。暫く行くと・・・・・・・・・・・・・
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高甫地域づくり推進委員会
平成25年3月
「高甫地域 史跡ハンドブック」より
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【神社仏閣巡り】 3月下旬このところ、気温の差が激しかったが、本日は初夏の陽気!健御名方神社 (須坂市郷原)に参拝する! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】 3月下旬このところ、気温の差が激しかったが、本日は初夏の陽気!健御名方神社 (須坂市郷原)に参拝する!
「健御名方神社は須坂市日滝小学校の西隣にある神社である。このところ、寒かったり、また汗をかくような不安定な日が続く。寒暖の差が激しい。高山村に所用で来たが、次の訪問先に行く迄に、時間が少し空いたので、途中にある健御名方神社に寄ってみた。
昔より日滝の本郷、大谷、高橋地区の鎮守の神社で、その名の通り祭神は「健御名方命」である。「健御名方命」を祀っているということは、この神社は諏訪神社で、武神、農耕神、狩猟神として信仰されているという事になる。
健御名方命の名前の由来は、「健(建)」は猛々しい、「御」とは尊敬の意味をあらわしているようで、健御名方とは「猛々しい名方の神」という意味になる。確かに武神に相応しい由来である。そういえば信濃源氏が崇めていた「八幡神」も・・・・・・・・・・・・
須坂探検マップ
http://www.suzakamap.com/tanken/page.php?_id=76
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http://donndoco.rgr.jp/Report/suzaka_hitaki.htm
【神社仏閣巡り】水内坐一元神社(長野市大字小島)を参拝する!近在では少ない御柱祭を行う神社! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】水内坐一元神社(長野市大字小島)を参拝する!近在では少ない御柱祭を行う神社!
友人がメンバーになっている「ハイカラモンキーズ」というバンドの公演が、長野市小島の東部文化センターで開催された。友人の誼で見に行った。バンド名でも解る通り、聴衆は年配者が多かったのだが、400名くらい集まり盛会だった。15:30終了。未だ日が高かったので、100mくらい先に、鎮守の森が目に入ったので行ってみた。田んぼの中に、鎮守の森があり、畦道を通って境内に着いた。
【水内坐一元神社】
宮司 長沼忠行氏
神社名 水内坐一元神社(みのちざいちげんじんじゃ)
鎮座地 長野市大字小島字樋堰南557
本社祭神名 建御名方命(たけみなかたのみこと)
例祭日 9月中旬 日曜日
由緒 小島の産土神。古くは水内社といった。天文22年(1553年)上杉謙信川中島出陣のおり、祭典料と制礼を寄附。
安政2年(1855年)水内最高の意をもって社号を改めた。
祭神 建御名方神、天照皇大神、猿田彦大神、太宰府天満宮(曹原道真公)古くは「水内の社」ともいう。上杉謙信信州川中島出陣のおり祭典料として永1貫文と書き付け並に制札を下付したという。境内には古い安永8年(1779)10月の打籠がある。
安政2年(1855)諏訪大明神を改称、水内の最高社の意を持って現社号に改められる。
明治41年10月には神明社、天神社、金比羅社を合祀。
昭和61年境内社造営し近在では少ない・・・・・・・・・・・・
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いきいきわがまち やなぎはら
柳原地区住民自治協議会公式ホームページ
http://e-yanagihara.com/whatmap/minochinimasu
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【神社仏閣巡り】 日本三大文殊堂の1つ、真言宗智山派松高山大聖寺(通称亀岡文殊)を参拝する! [神社仏閣めぐり]
【神社仏閣巡り】 日本三大文殊堂の1つ、真言宗智山派松高山大聖寺(通称亀岡文殊)を参拝する!
奈良県桜井市の安倍文殊院、京都府宮津市の智恩寺(切戸文殊)と共に、日本3大文殊の一つに数えられる亀岡文殊。知恵を司る文殊菩薩を祀る、東北地方稀有の名刹には、合格祈願や学徳成就の為に山形県内外から多くの参拝者が訪れる。
停年まで勤めた会社在籍中、2年半盛岡に勤務したことがある。当時は単身赴任だったので、土・日、祝祭日の殆どを「神社仏閣名所旧跡巡り」に費やした。赴任当時は、東北には、「さして見るべきものは無えだべなあ!」と勝手に思っていたが、これがいい方の誤算で、大層楽しかった。特筆すべきは、「東北の祭り」で、何といっても、祭りの参加者が凄く多いのである。それも「えらく気合が入っていて、凄く気持ち」がいいのである。花火大会でさえ、結構な雨が降っていても、中止にしない。私は大曲の花火大会(正式には、全国煙火師競技大会という)には参った。1時から始まるのだが、そのころから既に雨が降っていて、「こりゃあ中止だべえ!」と思ったが、一向に止めず、遂に予定通り21時半までやり切った。大曲の駅で、新幹線の切符の代金を払おうと思って、尻のポケットに入れて置いた財布から、札を取り出して驚いたねえ! 雨に濡れてビッショリだった。ことほど左様にどの祭りでも根性が入っていて、実に気持ちが良い!
さて前置きが長くなってしまったが、文殊堂の話に入る。赴任して、2年も過ぎた頃、それまでは、北東北3県を彷徨ったが、後半年で、「ソロソロ転勤かも知れんなあ!」と思ったので、赴任中に、南東北3県も廻っておこうと思い立ったので、それからは南東北を意識的に廻った。
最初に行ったコースは、東北道を南下して、北上市に出て、錦秋湖・湯田を抜けて、横手まで出て、13号線に入り南下した。例によって下調べのない、行き当たりバッタリの旅であったが、目に付いたものがあれば、車を停めて、気儘にぶらついた。
天童・立石寺などを経て、山形市に出た。ここら辺に来た時、「そういえば山形の何処かに、日本3大文殊の1つがあった筈だぞ!」と頭を過ぎった。「さて!それは何処なんだ!」と観光地図を拡げて探したら・・・・・・・・・・・・
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参考 いま山形から…山形漫歩
http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/series/manpo/kameoka.html
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http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/03/mailmag/series/manpo/kameoka.html