【神社仏閣めぐり】 善光寺を参拝して往生寺まで足を延ばし参詣しました。 [神社仏閣めぐり]
往生寺は、鎌倉時代のころ、九州博多の城主、刈萱加藤左衛門尉重氏が世の無常を感じて出家して高野山に入り、刈萱上人と名前を変えて修行していたところへ、その子の石堂丸が尋ねてきて弟子入りを迫りました。(母も一緒に逢いに向かったが、途中で死亡)刈萱上人はやむなく許したものの、親子の情愛に泣かされて修行がおろそかになることを恐れ、信濃の善光寺に参篭して如来よりこの地を授かり寺を建てました。83歳で寂しました。
生前、刈萱上人が彫刻して遺しておいた地蔵尊を、後から慕って往生寺まできた石堂丸も、それを手本として同じものを刻みました。これら二体の仏像を刈萱親子地蔵尊と呼んでいます。この地蔵尊は、厄難を救い、臨終には必ず同行となって極楽へ導いて下さるといういい伝えがある。また、これ等の経緯を絵解きにし、全国的に珍しくなった「絵解き説法」が継承されている。住職が独特の口調で語る法話であるが、例によって行き当たりばったりの旅なので説法を聞く機会には恵まれなかった。
【神社仏閣めぐり】 往生寺 「夕焼け小焼け」の童謡発祥の寺 長野市
https://youtu.be/KyK3eIeIDkY ←クリックしてみて下さい!
本堂の裏には刈萱上人墓所、境内には、芭蕉・一茶の句碑、吉良上野介手植え桜や弘法大師作の波切不動がある他、梵鐘は「夕焼けの鐘」と呼ばれ童謡「夕焼小焼」ゆかりの鐘だという。
例によって、境内の様子だけを撮った動画でしかありませんが、貼付しておきます。
信州須坂「米子のお不動さん」本日は例大祭 ご本尊様年一回のご開帳! [神社仏閣めぐり]
昨日偶々米子のお不動さんの記事を掲載しました。最後に5月1日例大祭と書きましたが、考えてみれば【考えなくても同じだが】今日は5月1日。天気も良かったのでお不動さんまで行ってきました。
お寺の周りは、一面田圃ですが、本日は、車で一杯。参道には出店が沢山出て賑わっていました。本堂では既に護摩行が始まっていました。護摩行が終わって、参拝者が堂内から去り、畳の上で、休んでいたら、修行僧が傍に来て、「秘仏はご覧になりましたか?」と声を掛けて戴きました。正面におわす等身大の不動明様が秘仏とばかり思っておりましたが、秘仏はその像の後ろにお立ちになっておられるとのことで、生花などを退けて戴き、秘仏を拝見させて戴きました。1年でも本日のみの公開なのだそうです。ありがたく参拝させて戴きました。
【神社仏閣めぐり】 米子不動尊例大祭 (日本3大不動尊)
https://youtu.be/XmPkhAkPMh0 ←例大祭の様子です!クリックしてみてください!
【神社仏閣めぐり】 真田陣太鼓 「出陣」 米子不動尊例年大祭奉納演奏
https://youtu.be/bCIfrluYQIM ←音がよく拾えていない様です!実際はもっと迫力があります!
米子不動尊は、真田家との縁も深く、寺紋も真田家の六文銭です。そのご縁で、本日の例大祭に、真田出陣太鼓保存会の方も演奏のために来られておりました。
演奏まで1時間20分ほど時間があったのですが、是非聞いていこうと思い、その時間を利用して、境内を周ってみました。
さて1時45分真田出陣太鼓の演奏が始まりました。いまNHKの大河ドラマで「真田丸」が放送されていますが、観光客の入込みで、上田・松代は大変盛り上がっている様です。真田藩は、大藩に挟まれ、その中で生き残りをかけて、知略で生き残って来ただけあって、「出陣」「合戦」という演目だったのですが、当時の武士の生きざまを表現した迫力のある演奏でした。
小生は亥年で、大日如来様が、守り仏ですが、不動明王は、大日如来の化身なので、成田山東京別院深川不動によく参拝に行くのですが、地元(故郷)に、このような日本三大不動尊の1つの米子のお不動さんがいらっしゃるので、これからも参拝に伺おうと思いました。
【神社仏閣巡り】 善光寺朝のお勤め 早朝のすがすがしい境内に読経の声が響く! [神社仏閣めぐり]
善光寺の朝は早い! 4時30分(冬季は6時)双盤が境内に走り、続いて太鼓の音が打ち鳴らされ、本堂の扉が徐に開かれる。続いて内々陣の唐戸が開かれ、これにて参拝客は堂内に入ることが許される。
5時前から善男善女が三々五々集まり始め本堂に向かって列を作り石畳に膝まづき手を合わせる。人々はお上人(大本願)様、ご貫主(大勧進)様が、お朝事の為本堂にお上がりになるのを待つ。お上人・ご貫主は、膝まづいた善男善女の頭にお数珠を授け乍ら本堂に向かう。これが「お数珠頂戴」と言われる風習である。平素如来様に身近にお仕えしているご住職のお数珠に触れることにより、仏縁を結び、御仏の救いにあずかり、これにより・・・・・・
【善光寺】 ご開帳 本堂にてお朝事開始!
https://youtu.be/Hl_9orV-t9M ←非常に短くお朝事の極一部の動画です。
【善光寺】 御開帳お朝事終了後 お数珠頂戴!
https://youtu.be/Fei6h-9cVYo ←clickしてみてください!
【善光寺】 本堂 前立ご本尊様ご開帳の瞬間!
https://youtu.be/wp2Y3_FfiAI ←この動画は前立本尊ご開帳の一瞬の音声での記録です!
日本3大不動尊に数えられる、信州須坂「米子のお不動さん」 霊験あらたか! [神社仏閣めぐり]
開山の地は、不動滝と権現滝の中間にある、現在奥の院と称されているお堂があるところです。最盛期には33の僧坊があり大変大規模なお寺であったと記録されています。米子にあるのは里堂で、ご本尊は、ここに安置されていますが、ご本尊ご分身は、毎年6月14日に信者に背負われて、奥の院まで運ばれ、再び背負われて里堂に帰る9月14日までの3ヶ月間奥の院に鎮座します。
米子不動尊 節分会 米子のお不動さん!-蔵の町須坂
https://youtu.be/eSsmKnIQPT8
米子不動尊 日本3大不動尊!節分豆撒きで大賑わい!
https://youtu.be/OGmVaXKxE6g
節分会 米子不動尊[蔵の町須坂]善男善女の節分豆撒きに遭遇!
https://youtu.be/l2n7L0yfzcc
米子不動尊!節分でにぎわっていました!
https://youtu.be/s8VytHMIVrI
米子不動尊 日本三大不動尊
https://youtu.be/Wazy9JvDz2U
真田藩と縁が深く寺紋は真田藩の「六文銭」です。現住職は、仙台真田藩真田信繁の末裔、又、妻は第3代松代藩主真田幸道の直系に当たります。
昨年未だ雪が多く残って居る時に、何の気なしに里堂に行ったら、偶々節分会の日で、境内は人で溢れていました。その時の動画を添付しておきます。
5月1日は春季大祭でご本尊のご開帳、毎月15日に護摩行が行われます。
海野宿の南口に鎮座する白鳥神社 真田一族にも大いに関係する神社! [神社仏閣めぐり]
さて祀られている海野氏は、この一帯を支配した豪族の初代であるが、いまNHKの大河ドラマの「真田丸」の真田一族はこの海野一族の出である。
江戸時代に作成された『真田家系図』には、真田氏[海野氏]の発祥は清和源氏であり、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子という真田幸隆が小県郡真田郷を領して真田庄の松尾城に居住し、以後真田姓を名乗ったと記されている。
この様な経緯で白鳥神社は真田一族と深い関係があり、一族からの厚い信仰を得る。またいろいろなエピソードもある。海野一族が、武田勢に攻め込まれ、滅亡の危機に瀕した時、真田幸隆の枕元に、女神が現れ「この鉾を持って出でよ!末はめでたかるべし!我は白鳥明神の遣わしなり!」とのお告げがあり、幸隆は一党を結束させ、敵陣のど真ん中を突破し戦場から脱することが出来た。
【神社仏閣巡り】 白鳥神社 境内散策 東御市 信州「神社仏閣名所旧跡巡り」
https://youtu.be/ySKGth9oT_I
【神社仏閣巡り】 白鳥神社 東御市 ご神木と本堂参拝!
https://youtu.be/I-qjyXAGDfg
【神社仏閣巡り】 白鳥神社!東御市 木曽義仲が挙兵した神社 新海宮・道祖神・大黒天
https://youtu.be/AkW2g-CF5To
【神社仏閣巡り】 白鳥神社 鯨石の噴水ってなんだ! 東御市
https://youtu.be/LArOxWiD_So
また、後年、1622年上田から、松代に転封になった際、旅立つ信之の籠の上に白い鳥が舞い降り、共に移りたいとのお告げがあった。松代に移った直後に光る物体が東方から飛来し白鳥明神の鎮座すべき場所を告げました。1624年信之は松代舞鶴山に白鳥神社を分祀した。のちに藩祖として共に祀られ真田家は末代へと残りました。斯様に白鳥神社と真田家の深い関係がわかります。
小生がこの神社について、興味を持ったのは、「鯨石」というものです。池の中に横たわっているのですが、頭部と思われるところから、噴水の様に水が上がっているのです。どうしてそうなるのか、また何の為にあるのかわかりませんでした。神社内には、道祖神や、狛犬、大黒天・恵比寿、欅の大木などあり、歴史の古い神社であることが判る。
海野宿は、北国街道の宿場であるが、善光寺の参拝客や、諸大名の参勤交代、佐渡の金などの荷駄の流通などで賑わった。旅籠の客も白鳥神社に詣で旅の無事を祈ったことだろう。
【神社仏閣めぐり】世尊院 日本唯一銅製等身大釈迦涅槃像を祀る[神社仏閣名所旧跡巡り] [神社仏閣めぐり]
このご本尊は、体長1.66m、重さ500kgの日本で唯一の銅造等身大釈迦涅槃像である。鎌倉時代の作である。お釈迦様が入減し完全な悟りを開いたお姿を表わしている。鎌倉後期の作で国の重要文化財に指定されている。
嘗て、善光寺本堂は世尊院の西、仲見世に面した堂跡地蔵尊がある場所に建っていた。世尊院釈迦堂と善光寺は向き合っていたのである。数え7年目毎に執り行われる御開帳の際には、善光寺本堂前と同じように世尊院の前にも回向柱が立つ。善光寺の本尊である阿弥陀如来様は来世の仏様であり、世尊院のお釈迦様は現世の仏様であることから、両方をお参りすることでより多くの御利益が授かると考えられているからである。
[これと同じような考え方で、別所温泉の北向き観音も、善光寺だけのお参りだと片参りと言って御利益が充分でないと伝わる]
このように世尊院は、善光寺との特別な縁のある寺院である。
世尊院 日本唯一銅製等身大釈迦涅槃像-02 神社仏閣名所旧跡巡り
https://youtu.be/rHjSTdJA3v8
善光寺御開帳 世尊院も御開帳 ご本尊は全国唯一の銅製釈迦如来涅槃像
https://youtu.be/iLaka2v5RCI
【さくら紀行・神社仏閣めぐり 】大岩山普願寺 桜の様子を見に行くも残念ながら未だ2分咲き! [神社仏閣めぐり]
清和源氏で最も有名な「井上光盛」は、木曽義仲と共に源平合戦において横田河原の合戦で戦い、軍功をあげましたが、文治元年(1185)駿州蒲原駅(現静岡県庵原郡)において暗殺される憂き目に遭います。その後、光盛の多くの部下は源頼朝の御家人となったりしましたが、一部の人々の中で常陸国稲田にてひっそりと暮らしていた親鸞聖人に帰依した人物がいました。この人物が、普願寺初代住職「賢阿房信性」といい、俗名を「業田次郎義遠」←[現普願寺住職は業田<なりた>姓を名乗る]といいました。賢阿房信性の父「井上義勝」は親鸞の教えに深く傾倒し、所領の磯部に勝願寺を建立し、後、義勝に従った6名の武士が、井上義勝の影響を受け、いわゆる「磯部6ヶ寺」を建立しました。
「笠原本誓寺」「久保勝善寺」「中俣勝善寺(現勝善寺の前身)」「平生願生寺」「長沼西巌寺」「大岩山普願寺」が磯部6ヶ寺と称される寺です。この6寺全てが信州に移転しているのです。普願寺の移転先は、日滝本郷←(須坂)にあったが火災に遭い北原に移転、更に弘治元年(1555)に現在地に移転し現在に至る。斯くのごとき由緒正しいお寺です。[以上 須坂探検マップホームページ参照]
須坂市本上町にある、勝善寺も磯部6ヶ寺の一つです。普願寺・勝善寺も、人口52000人規模の市にしては
非常に大きなお寺で、ある意味不思議に思っていましたが、その成り立ちや、経緯を知ってなるほどと思いました。昨日桜の様子を見に、普願寺に出かけましたが未だ2分咲きでした。満開になれば、ピンクのトンネルが、石畳の参道に映え、雰囲気が楽しめるのですが来るのが少々早かったようです。
大岩山普願寺 大門から石畳の参道を進む!
https://youtu.be/SjWDl577wfk
大岩山普願寺 参道の石畳の桜は未だ咲き始め!
https://youtu.be/xi050e71RI8
普願寺本堂 落ち着きある境内 桜咲き始め!
https://youtu.be/SOnhycmIkAI
普願寺 塔頭の寺々と参道を彩る花々!
https://youtu.be/NmJtByG7Hq8
圓光寺 大笹街道沿いに建つ太鼓堂 [神社仏閣めぐり]
天文5年(1536)現在の長野市柳原布野に創立されましたが、その後数ヵ所移り、慶長年間(1596~1615)に現在地に移りました。その境内の西隅の大笹街道沿にある太鼓堂は、普請に関する文書から、越後の棟梁山岡武兵衛により、明治27年に完成をみました。1階部分は江戸時代末期に建てられたものと推定されます。不等辺八角形の平面で、美的・技術的に優れた楼閣建築です。 須坂市教育委員会」と案内されています。円光寺太鼓堂は平成6年に須坂市指定有形財に指定されています。現在は太鼓は取り付けられていないそうです。
圓光寺 大笹街道沿いに建つ太鼓堂
https://youtu.be/jb3HQal_CaI
霧原大元神社 須坂市上八町 須坂市に唯一残る赤熊(しゃあま)で無形民俗文化財指定 [神社仏閣めぐり]
天気もいいので、何処に行くともなく、車を運転していたら、近在では珍しい火の見台があった。そういえば、青森の新郷村辺りを走っていた時も同じ様なものがあったのを思い出した。須坂市内では初めて見るものだった。通りを隔てた反対側に神社があったので寄ってみることにした。
霧原大元神社である。ここは須坂市八町(はっちょう)であるが、産土神として鎮座。建御名方命と御厩中央御玉神及び事代主命の三神を祀る。この地には、もと津島牛頭天王を祀る津島宮があったが、嘉永6年(1853年)諏訪大社を氏神として「霧原の牧」に因んだ霧原大元神社の社号を受ける。現社殿は、明治時代に再建されたものである。本殿内に宝暦頃の建築とされるコケラ葺流れ造り社の内宮を祀る。欅造り彫刻入り本殿は近在でも稀な見事なもとなっている。
www.city.suzaka.nagano.jp/otakara/search/item.php? 参照
この神社に付いて、特筆すべきものは、「上八町の赤熊(しゃあま)」と呼ばれ、毎年10月第2土・日に霧原大元神社に奉納される太神楽と、その一連の行事が、須坂市指定無形民俗文化財として登録されていることである。上八町の赤熊として、 平成4年1月4日指定された。
赤熊は毛槍の変形[大名行列の先頭に登場するもの]で、長い柄の先に麻を垂らしたものを、奴姿の若者が振ります。赤熊の前では先箱が、後では長柄立つ傘が赤熊に合わせた動きをします。灯篭なども出て、古き良き時代のお祭り風景を伝えています。須坂市内では、唯一現在に伝わっている赤熊です。これは特に柄が長く、中心になる大赤熊の長さは5.6メートル、小赤熊は4.65メートルあります。
小生は赤熊を未だ見たことがありませんので、10月に再び霧原大元神社を訪れたいと思いました。
また本年は数え7年ごとに行われる御柱の年であるが、ここ霧原大元神社も御柱祭が行われるとのことです。
※ 諏訪大社(上社・下社)の他に、県下各地で、諏訪神社系の神社で御柱祭が行われます!)
霧原大元神社 須坂市上八町 須坂市に唯一残る赤熊で無形民俗文化財指定
https://youtu.be/Glfj3u5MDD4
赤熊の動画はこちら ↓ ほんものの須坂作成動画 ご参考にしてください!
https://www.youtube.com/watch?v=TfInor_kflk
みちのく一人旅 花巻の鳥谷崎神社秋祭 風流山車を曳くお稚児さんがかわいい! [神社仏閣めぐり]
天気予報では、この3日間、決して良い天気ではなく、本日は兎も角、明日はどうなるか解らない故、レジュメは、[明日もあるし]何とかなるだろうってんで、[やっぱし]お昼過ぎに、盛岡駅に向かってしまったのである。此れで、ガチガチのA型人間だというから恐れ入る。[学生時代勉強しなかったが、明日テストという日でも、先ず寝るという人だった]
盛岡に来て初めて乗る各駅停車だった。ゴトゴト約30分くらい揺られて電車は花巻に着いた。未だ1時40分くらいだったので、駅の構内には、お囃子のテープが流れていたが、さして賑やかな風でもなく、はてどうしたものかと迷うほどの静けさであった・・・・・
長岡京 ぶらり一人旅! 乗願寺は小さな部落のこじんまりしたお寺でしたが丈六=大仏様が印象的でした! [神社仏閣めぐり]
今日は長岡京を中心に行ってきました。JR長岡京の傍の学校のグランドでサッカーの試合をしていたので車をそこに止め、自転車で回ることに。長岡天満宮へ。それから戻って、神走<こうたり>神社→勝龍寺城へ。長岡に城があったなんて初めて知る。勝龍寺・村社春日神社→恵解山<いげのやま>古墳→鳥居前古墳→小倉神社→乗願寺→御谷神社→楊谷寺→長岡埋蔵文化研究センター→寂照院→海印寺古墳→足田神社→長法稲荷→長法寺→光明寺→一旦家に帰って、高槻城跡と回りました。晴れてはいたのですが、時々雪が舞う天候でした。
乗願寺は柳谷通りから大山崎に抜ける山道の途中から入る小さな部落の中にあるホンの小さなお寺です。「だいぶつ」と書いてあったので、是非みたいなと思い境内に入りました。お堂の左手に受付みたいなのがあり、その先は住職の住居のようになっていました。参拝をしたい旨申し出ようと声を掛けましたが、何の返答もありません。仕方が無いので、何とはなしに入口の障子をあけ、お堂に入りましたら、見事な大仏<丈六>様が鎮座ましまして居られました。誰も居ない堂内で暫し対面しておりました。このお寺の周りに5・6軒あるような小さな部落でしたが、こんな立派な仏様が居られるとはびっくりしました。
恵解山古墳は標識があったので行ってみた古墳でしたが、単なる丘で、お墓が分譲されていて、余程注意しないと古墳とは解らないようになっていましたが、これまた標識があったので寄ってみた長岡埋蔵文化財研究センターの展示物の中に、恵解山古墳の埋蔵物の展示があり、何と鉄剣などが多数出土した大変な古墳であることが解りました。
海印寺寂照院というお寺は山門のみが残され、あとは鉄筋の建物になってしまったお寺でしたが、このお寺の本堂の裏には、なんと古墳があるのです。曰く「海印寺古墳」 先ほどのセンターの入り口に、この古墳の玄室を覆っていた蓋と底石が展示してありました。
長岡京は、延暦3年<784年>桓武天皇の命により、奈良の平城京から遷された都です。東西4.3Km、南北5.3Kmの規模であり、平城京・平安京に勝るとも劣らない広大なもので、現在の長岡京市、向日市、大山崎町、京都市の一部におよぶ広大なものでした。しかしながら延暦11年僅か10年で廃都となり、平安京へと都は移ってしまいました。藤原種継事件とかがあり、無実の罪を被せられた早良親王の祟りを恐れての遷都といわれていますが、都としての地理的条件や南四半分は桂川の氾濫原にあたる低湿原で欠陥都市であったことも否めません。
か今日は肝心の大極殿跡や長岡京築地跡、石塔寺,乙訓寺等へは行けませんでしたが、流石一時とは言え都があったところだけにいろいろ見所がありました。高槻からは比較的傍にあるので、高槻城には、一旦家に帰ってからまた出掛けました。