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【名所旧跡めぐり】近藤勇の墓 (板橋区北区 JR板橋駅東口)に遭遇する!  [歴史探訪]

【名所旧跡めぐり】近藤勇の墓 (板橋区北区 JR板橋駅東口)に遭遇する! 


 


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 【近藤勇の墓】


 新撰組局長として幕末に活躍した近藤 勇は、慶応4年(1868年)板橋刑場で処刑されました。函館で戦死した土方歳三をはじめ新撰組隊士と共に墓が建てられています。近藤勇の墓は、生家の近くの龍源寺(三鷹市)や、天寧寺(会津若松の石山天寧)とか・・・・・・・


 続きはこちら ☞  http://mahoroba19.com/archives/13070


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場所:北区滝野川7810


交通:JR埼京線板橋駅東口から徒歩1


 


 


 


 


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【歴史探訪】本能寺の変直後、反信長派への明智光秀密書の原本発見!歴史の真実の解明進むか!?  [歴史探訪]

【歴史探訪】本能寺の変直後、反信長派への明智光秀密書の原本発見!歴史の真実の解明進むか!? 


 本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力と共に室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治に宛てた書状で、信長に追放された15代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書であるという。【松本宣良】


  教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈した。


  鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論を出した。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しく、且つ貴重。


  書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信と見られる。「上意(将軍)への奔走を命じられた事をお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。


 


 京を追放された義昭は当時、毛利輝元の勢力下にある鞆の浦(現広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力する事になっていると重治から示され・・・・・・・・・・・・


       つづきはこちらから ☞  http://mahoroba19.com/archives/7674


 


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記事・画像 引用・参考元 Yahoo News <毎日新聞社>


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170912-00000004-mai-soci


画像元 yjimage


https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%AE%E6%96%87%E7%8C%AE&rkf=2&ei=UTF-8&imt=&ctype=&imcolor=&dim=large


 


 


 


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坂本龍馬の書簡、新たに6枚発見 寺田屋事件など生々しく記述! [歴史探訪]

坂本龍馬の書簡、新たに6枚発見 寺田屋事件など生々しく記述!

 坂本龍馬(1836~67)が兄・権平の家族に宛てた手紙が新たに6枚見つかった。高知県が15日、明らかにした。龍馬が幕府側に襲撃された寺田屋事件や、幕府と長州の戦争を生々しく記述。文中には西郷隆盛(吉之助)や小松帯刀、高杉晋作など維新の志士たちの名前も登場する。

   県などによると、6枚の手紙はいずれも縦25センチで、幅は30センチ前後。龍馬が慶応2年12月4日(1867年1月)に記した。手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたが、この6枚は初めて・・・・・・

 

       つづきはこちらから ☞  http://mahoroba19.com/archives/6641

 

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引用・参考元 ヤフーニュース < 朝日新聞社

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170615-00000114-asahi-soci

画像元 yjimage

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E7%AB%9C%E9%A6%AC%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99

 

 


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不老長寿は幸せなの? 800歳まで生きた姫の伝説が残るお寺に質問をぶつけてみた [歴史探訪]

不老長寿は幸せなの? 800歳まで生きた姫の伝説が残るお寺に質問をぶつけてみた


人魚の肉を食べて不老長寿となり、800歳まで生きたといわれる「八百比丘尼」(はっぴゃくびくに/やおびくに)という伝説の姫がいる。『妖怪ウォッチ』や『陰陽師』のゲームにも登場するので、ファンなら知っているかもしれない。

八百比丘尼の伝説の地へ

そんな八百比丘尼の伝説の地のひとつ、福井県小浜市にある曹洞宗の寺「空印寺(くういんじ)」に行ってきた。なんと、この寺の境内には八百比丘尼が入定(にゅうじょう)したといわれる洞窟があるのだ。入定とは、生きたまま身を隠して静かに死を待つことである。

昔、このあたりは海だったそうで、洞窟は波の浸食でつくられた海蝕銅(かいしょくどう)だという。奥行きは数メートルほどで、なかには「八百比丘尼」と彫られた石碑があった。洞窟のなかは、昼間でも懐中電灯があったほうが安全なほど暗い。

そんな伝説が残る空印寺の八百比丘尼だが、果たして超長生きは幸せなのか、住職に・・・・・・

 

 

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記事・画像 引用・参考元 Excite News <bit>

http://www.excite.co.jp/News/bit/E1491986180407.html
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陰陽師=安倍晴明の墓大ピンチ!直系子孫と不明!連絡取れず!寺が供養続ける! [歴史探訪]

陰陽師=安倍晴明の墓大ピンチ!直系子孫と不明!連絡取れず!寺が供養続ける!   平安時代の陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明の直系子孫である土御門家の菩提(ぼだい)寺・梅林寺(京都市下京区)で、一族の墓が長年の劣化で崩壊しそうな状態になっている。半世紀近く子孫の消息が不明になっているためで、寺側は対応に苦慮しつつも、千年以上にわたって天文や暦法をつかさどった一族の供養を続けている。  土御門家は江戸時代、京都の梅小路周辺に邸宅や私塾を構え、暦の作成や陰陽師の統括、天皇や公家の祭祀や占いを行った。太陰太陽暦から太陽暦に変更された明治期以降は東京に移ったが、梅林寺の墓所には18世紀から大正期に建てられた一族の墓20基が残る。宝暦暦を作った土御門(安倍)泰邦や、天保暦の施行に関わった晴雄(はれたけ)ら歴代の当主や家族が眠っている。  しかし現在は、長年の風雨に晒されて墓石にひびが入り、碑銘も剥がれ落ちるなど傷みが激しい墓もある。同寺によると、土御門家の関係者との・・・・・・・
 
 

 

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記事・画像 引用・参考元 Yahoo News <京都新聞>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170211-00000016-kyt-l26



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<古文書>本能寺の変、仏教界は喝采 信長よく思われず!「信長は清盛の再来」 [歴史探訪]

<古文書>本能寺の変、仏教界は喝采 信長よく思われず!「信長は清盛の再来」

■愛知・豊橋の寺で発見 悪感情読み取れる■

 愛知県豊橋市の金西寺(曹洞宗)に伝わる古文書に、織田信長を批判的に評した詩文が引用されていたと島田大助・豊橋創造大教授(日本近世文学)や高崎俊幸住職が発表した。島田教授は、仏教界の信長に対する悪感情が読み取れるとしている。



【拡大写真】開山記「当寺御開山御真筆」

 文書は、寺を開いた月岑牛雪大和尚が江戸時代初期の1619年以降に書いたとされる開山記「当寺御開山御真筆」。

 その冒頭に、近江国(現在の滋賀県)出身で京都・東福寺の・・・・・・・


 
 

 

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記事・画像 引用・参考元 Yahoo News <毎日新聞社>【石塚誠】


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170204-00000046-mai-soci




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115年前の八甲田雪中行軍事件 弘前隊生還の真実探る! 間山元喜さん資料調査に執念燃やす! [歴史探訪]

115年前の八甲田雪中行軍事件 弘前隊生還の真実探る! 間山元喜さん資料調査に執念燃やす!

1902(明治35)年1月、青森歩兵第5連隊210人のうち199人が犠牲となった「八甲田雪中行軍遭難事件」から20日で115年。当時、青森隊と別ルートで行軍し、39人(2人が途中離脱)全員が生還した弘前歩兵第31連隊の資料調査に取り組んでいるのが、弘前隊の宿営係を務めた間山仁助伍長の孫・間山元喜さん(67)=弘前市。

隊を率いた福島泰蔵大尉の手記や従軍士官の報告書を入手した間山さんは「弘前隊の行軍も過酷な旅程だった。よく知られていない弘前隊の真実を伝えていきたい」と話している。
 
間山さんは2013年、福島大尉の孫の倉永幸泰さん(90)=長崎県諫早市在住=から、福島大尉が残した行軍に関する資料のコピーを譲り受けた。資料は福島家で「門外不出」とされていたが・・・・・・・・・


 
 
 
 

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記事・画像 引用・参考元  Yahoo News <東奥日報 >

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170127-27112525-webtoo-l02



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1人前と言われるまでに20年 日光東照宮の竜の絵を残す  [歴史探訪]

1人前と言われるまでに20年 日光東照宮の竜の絵を残す 

今年12月、ユネスコ無形文化遺産に登録された「鹿沼今宮神社祭の屋台行事」。彫刻やタイの制作・修理に携わった職人のひとりが「彩色師」の澤田了司さん(67)。今年、高円宮殿下記念地域伝統芸能賞支援賞を受賞した。「家族から、仕事は繊細なのに日常作業は不器用だと言われます」とそのギャップを笑われている。

 中学時代から独学で絵を描き、高卒後、1970年から文化財保存会の一員として、日光東照宮をはじめとする栃木の文化財の修復作業に携わってきた。現在、彩色師は5人、漆塗り師は6人いる。

「71年、天井画の復元作業で竜の絵を描く仕事に関わり、一生の仕事にしたいと思いました。日本絵は線が繊細で、例えば鳥の絵を描くにも羽の一本一本に神経を集中させる。昔は今ほど・・・・・・・・・・


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引用元 nikkan-gendai[articles/view/life]
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/196827

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対米開戦に新しい見解! 「真珠湾」通告遅れは意図的に処理したのか?  [歴史探訪]

対米開戦に新しい見解! 「真珠湾」通告遅れは意図的に処理したのか?  九大教授が米記録発見

 太平洋戦争の開戦通告が遅れたのは、「ワシントンの在米日本大使館の怠慢だった」というのが通説になっているが、これを覆し、「日本外務省が意図的に電報発信を遅らせた」ことが原因とする説が浮上している。九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、通告の訂正電報を外務省が13~14時間遅らせて発信していた記録を、米国公文書館(メリーランド州)で発見した。開戦から75年。安倍晋三首相がハワイ・真珠湾を訪問するが、通告の遅れに関する真相究明が進んでいる。何かの因縁を感じる。

 日本が日米交渉の打ち切りを米国に伝えた「対米覚書」が、開戦通告と位置付けられている。三輪教授が発見したのは、覚書の一部である二つの電報の発信記録。外務省が大使館に発信し、米海軍が傍受したもので、1941年12月7日の「午前0時20分」と「午前1時32分」(いずれも米東部時間)とある。この電報の存在と時刻が何を意味するのか。

■電報は14部に分けて発信■

 旧日本軍が真珠湾攻撃を開始したのは、同7日午後1時19分。覚書が当時のハル米国務長官に手渡されたのは・・・・・・・


 
 

 

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 引用元 ヤフーニュース [西日本新聞]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161226-00010001-nishinpc-soci


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<京都・西本願寺宛て文書見つかる!>「浅野内匠頭 乱心」の内容 [歴史探訪]

<京都・西本願寺宛て文書見つかる!>「浅野内匠頭 乱心」の内容

赤穂浪士討ち入りのきっかけとなった赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷事件に触れた新たな古文書が浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)の本願寺史料研究所で見つかり、同研究所が2日発表した。事件直後に作成されたもので、内匠頭が「乱心」したなどと記されている。刃傷事件について同時代に書かれた史料は見つかっていないといい、同研究所は「当時の状況が分かる貴重な発見」としている。

 刃傷事件は元禄14年3月14日(1701年4月21日)に発生。内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介(きら・こうずけのすけ)に切りつけた。赤穂藩は取りつぶし、内匠頭は即日切腹となり、元禄15年12月(1703年1月)に家老の大石内蔵助(くらのすけ)らが吉良邸で上野介を討ち取った。

 見つかったのは、上野介と関係が深かった西本願寺の幹部が直轄寺院である江戸築地御坊(現・築地本願寺)とやりとりした際に作った「江戸江遣書状留帳(えつかわすしょじょうとどめちょう)」。同研究所が保管する約20万点の中にあった。

 事件から7日後の元禄14年3月21日(1701年4月28日)付の文書には・・・・・・


 
 
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引用・参考元 ヤフーニュース<毎日新聞 篠田直哉>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161203-00000002-mai-cul
画像引用 http://mainichi.jp/articles/20161203/ddm/012/040/069000c


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古代の不思議!謎シリーズ!伊勢、出雲、諏訪、高千穂、熊野…神々つなぐ「陽のみちしるべ」の謎 [歴史探訪]

古代の不思議!謎シリーズ!伊勢、出雲、諏訪、高千穂、熊野…神々つなぐ「陽のみちしるべ」の謎  淡路島の伊弉諾神宮

伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀)に「陽のみちしるべ」と記された石碑がある。春分、秋分の日の太陽が通過する北緯34度27分23秒の緯度線に伊勢神宮(三重県伊勢市)、伊弉諾神宮、対馬海神神社(長崎県対馬市)が一直線に並び、冬至、夏至の日の出、日没の方角にも伊弉諾神宮ゆかりの神社が並ぶと説明されている。伊勢から対馬まで約680キロ。はるか昔、緯度や太陽の運行が分かったとは信じがたい。このことを“発見”した伊弉諾神宮の本名孝至宮司に「陽のみちしるべ」の謎を尋ねた。

【夏至は諏訪から出雲、冬至は熊野から高千穂】

 各地の神社には伊勢神宮の方角に向かって拝むための「遥拝所」があり、伊弉諾神宮では真東を向いている。淡路は昔から伊勢信仰が篤いこともあり、太陽神の天照大神をまつる伊勢神宮と「何か縁があるのでは」と感じていた本名宮司は、設計や測量を行っている会社に正確な位置関係の計測を依頼した。

 その結果、伊弉諾神宮を中心に東は伊勢神宮内宮、西は対馬の海神神社が同緯度に並ぶことが分かった。それだけではなく夏至には諏訪大社(長野県諏訪市など)の方角から日が昇り、伊弉諾神宮を通過して出雲大社(島根県出雲市)の方角に日が沈み、冬至には熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)から日が昇り、高千穂神社、天岩戸神社(いずれも宮崎県高千穂町)に日没することが分かった。

【伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行ルート】

 「調べた方がビックリした」とは本名宮司。宮司によれば、春秋分の緯度線に対し、夏至は29・30度、冬至は28・30度と角度が1度違うが、それも合っているという。国内には8万以上の神社があり、地図に長い線を引けばどこかで神社にあたるだろうが、伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行ルート上にこれだけの社格の高い神社が並んでいることを単なる偶然と片付けるのは難しい。

 古社の創建年代ははっきりしない。古事記や日本書紀ではイザナギノミコト、イザナミノミコトが国生みのあと・・・・・・

 
 

 

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引用・参考 産経新聞 
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%80%81%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%80%81%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E3%80%81%E9%AB%98%E5%8D%83%E7%A9%82%E3%80%81%E7%86%8A%E9%87%8E%E2%80%A6%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%90%E3%80%8C%E9%99%BD%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%81%97%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%83%8A%E3%82%BE-%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%B3%B6%E3%81%AE%E4%BC%8A%E5%BC%89%E8%AB%BE%E7%A5%9E%E5%AE%AE/ar-AAkSfZH?ocid=SK216DHP

画像引用 

信玄vs謙信の一騎打ちの場 八幡原史跡公園(川中島古戦場)を散策する! [歴史探訪]

 長野IC(長野道)を降りて、長野市内方向に走り、18号バイパスとの交差点の手前右側に松林に覆われた八幡原史跡公園(川中島古戦場)があります。

 川中島とは、千曲川と犀川に挟まれた流域(長野市大豆島で合流します)のことを言い、ここを舞台に所謂川中島合戦が戦われました。これは甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が北信濃の覇権を争って戦った日本の戦国時代の中でも有名な戦いの一つです。両者の争いは、1度ではなく12年の間に5度繰り返され、その中でも最大の戦いが4度目となる永禄4年(1561年)8月の合戦です。この八幡原一帯で壮絶な戦いが繰り広げられ、両軍あわせて8千人にも及ぶ戦死者、約2万名の負傷者を出した上、武田軍副将・武田典厩信繁、山本勘助ら勇将が戦死しました。

 現在合戦場の八幡原の一部は史跡公園として昭和47年に整備されて市民の憩いの場所になっていますその中には、八幡原神社があり、ここを中心にして園内には幾つかの合戦に纏わる見どころがあります。一番世に知れているのは、信玄、謙信の一騎打ちと言われる場面を表した像です。この合戦の最中、武田本陣が手薄になったところへ単騎で謙信が、信玄めがけて突進し、3度に亙り切り掛かりました。信玄は軍配団扇で防戦し難を逃れましたが、傷を負ったと言われています。その場面を表現した像が本殿左手前にあります。

 【川中島合戦】 信玄・謙信一騎打ちの像 川中島古戦場公園 八幡社 
 
 https://youtu.be/l75UT99EnvU ←clickしてください!画像が出ます!

 また信玄が、謙信に挑みかかられた際、武田軍の原大隅守が槍で防戦しましたが、槍が謙信を外れて馬に当たり、驚いた馬が謙信と共に走り去ってしまいました。原大隅守は謙信を取り逃した無念さから近くにあった石を槍で突き刺したと言われ、その跡がある石[執念の石といわれています]が今に残っています。

他にも合戦で落命した兵士を埋葬した首塚があります。激戦の果ての戦場に散った躯を、川中島古戦場武田方の高坂弾正が敵味方の区別なく埋葬しました。それを伝え聞いた謙信は非常に感激し、塩が不足していた敵の武田方の領地甲斐の国へ塩を贈ったとと伝わっています。このことが「敵に塩を贈る」と言われる故事の由来となっています。

川中島古戦場は、この様な史上稀にみる激闘の場だった訳ですが、史跡公園の松林や、八幡社の静かな佇まいからは想像できない静かさです。

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北国脇街道・大笹街道の追分宿=(須坂)福島宿を往く! [歴史探訪]

 福島宿は、東に行く大笹街道と、松代に向かう北国脇街道(松代道)との分岐点にある交通の要衝の地となっている宿場である。福島は千曲川東岸の自然堤防上に形成された街村で、本通りの中ほどに、「左 草津仁礼道(大笹街道) 右 松代道」と刻まれた石道しるべがあります。千曲川に架かる八島橋の袂から、千曲川堰堤に沿って、村山橋方向に600mほど行く間に宿場の雰囲気の建物が残って居ます。

 福島は戦国期ころからすでに千曲川の渡船場があり、慶長16年、松平忠輝によって北国脇街道・松代道が整備され福島は伝馬宿として成立しました。北国脇街道・松代道はこの先千曲川を渡って、対岸の長沼宿へ至り、豊野を経て本道へ合流しました。

  【歴史探訪】 宿場 福島宿 須坂市福島地区 旧陣屋
  https://youtu.be/KPplyen8hps  ←clickしてみてください! 福島宿の動画です!

  【歴史探訪】 福島宿 旧陣屋[竹内家] 北国脇街道・大笹街道の追分の旅籠宿
  https://youtu.be/iyJEDY4e6Ts

  【歴史探訪】北国脇街道・大笹街道の追分 福島宿にある西福寺-薬師堂
  https://youtu.be/smCBD1EzsC8

  【歴史探訪】 福島宿 西福寺 薬師堂・庚申塔のある寺
  https://youtu.be/WA82GKkIso

 福島宿は南北約600m、北と南にそれぞれ桝形を設け、北の桝形には鎮守の天神社と浄土宗西福寺を配しています。北の桝形は鎮守と共に現存[道路が狭く、またトラックなどの通行が多く、また直角に曲がっているので一寸危険]しています。

 大名行列などは、北国街道本道を通ったので、福島宿は、物流を主体とした、あくまで商業主体の宿場町だったようで、宿場の南側には問屋・本陣を務めたと思われる旧家は見られるものの、川田宿同様に旅籠は少なかったようです。

 ここから600mほど行ったところに、「幸高(こうだか)」と呼ばれている所があり、両所を繋ぐ道路があるのですが、地元の人はそれぞれの頭の文字を取って、「幸福通り」と呼んでいます。一面田圃と畑なのですが・・。またその傍に福島城[砦]跡もあるみたいでしたが、探したけれど見つかりませんでした。



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北国脇街道=松代道の宿場町 川田宿を歩いてみた! [歴史探訪]

 須坂の福島宿を出て、松代へ向かうと、最初の宿場町「若穂川田」という集落に出ます。一部区間で谷街道の名でも呼ばれていますが、松代までは、「北国脇街道=松代道」と重なります。

 川田村は江戸期に農業中心の「東川田村」と町場のあった「町川田村」に分れていましたが、慶長16年に北国脇街道=松代道の整備と共に川田宿として成立します。当初は小屋敷(古町)という場所にありましたが、再三の千曲川の洪水に遭い、特に、元文4年の洪水で壊滅状態になり、現在地へと移転を余儀なくされました。

 川田宿は両端が、枡形で挟まれた、「コ」の字形[逆コの字]に形成されています。川田宿の家数は116軒、人口は511人(慶応3、4年改帳記録)の規模。宿場としては、物流(商人の宿泊)が中心だった様で、千曲川の渡(市村の渡・屋代の渡)が船留(運休)の際、特に賑やかだったようです。

   川田宿 本陣跡[現西沢邸] ご高札場 昔の面影を残す宿場町
   https://youtu.be/u6SaBsV_vgM

   川田宿 北国街道信州川田宿 高札場 コの字型の典型的宿場町
   https://youtu.be/x_ZHJRoL0HQ


 嘗ての宿場町のあった小屋敷には宿場についての案内は何もありませんが、石畳の敷かれた本町通りに辿り着くと、常夜灯 があり、漸く宿場らしい風景が目に入ってきました。400m先にも常夜灯があり、枡形もあるのですが、この一直線上左右に家並みがあるのみです。その中で、北村家と西澤家の2つの旧家が突出して存在感を示しています。西澤家は本陣と問屋を務めた家柄で、その脇には高札場も残って居ます。←Cf高山村堀之内の御判屋

 こうして、仁礼宿とか、須坂の福島宿とか、海野宿などを実際にまわってみると、当時の様子の一端や、関わり合いなども伺われ、本などで見るだけでは知りえない事も判ります。郷土の歴史も知っておくべきと思いました。

旅の空日暮れて街道に!湯煙が~(^^♪?♪ 千曲川のほとりの海野宿! [歴史探訪]

旅の空日暮れて街道に!湯煙が~(^^♪?[ムード]♪ 千曲川のほとりの海野宿!
 
 海野宿は、今も宿場の形を濃密に残している。時代劇などのセットにそのまま使える程だ。宿場町開設以前は、海野郷や海野庄などと呼ばれ、豪族滋野氏やその嫡流に当たる海野氏の領地として栄え、宿場町開設以前から集落が形成されていた。

 海野宿には、約6町(約 650 m)に亙り旅籠などが続き、道の中央に用水も流れており、当時の様子其の儘に残っている。海野宿には、本陣1軒と脇本陣2軒が設けられ、善光寺の参拝客や、参勤交代、佐渡で産出された金などの物資の輸送などに利用され賑わいをみせていた。

 明治に入り、信越線の敷設などにより、次第に機能を失い、以降は養蚕を営む農家などが増えた。1986年(昭和61年)には「北国街道」が日本の道100選に選ばれ、1987年(昭和62年)には海野宿が「宿場町・養蚕町」で重要伝統的建造物群保存地区に選定され現在に至る。

  海野宿 北国街道海野宿 旅籠の風景 見事な?の競演!
  https://youtu.be/wbQFR9kSw64 ←海野宿の動画です! クリックしてみてください!

  海野宿 北国街道 本陣 当時の旅籠を忍ばせる「馬の塩滑め石」ほか!
  https://youtu.be/e50W6LITQgA

  海野宿 北国街道海野宿[東御市] 媒地蔵尊
  https://youtu.be/YPk_7l5dEL8

  宿場 全国「日本の道百選」北国街道海野宿 江戸時代の旅籠の風景を色濃く残す!
  https://youtu.be/dsx4Cy0ttq4

  海野宿 北国街道  案内板と旅籠を見守る道祖神!
  https://youtu.be/OELXokrUXtk

 小生が訪れたのは、シーズンオフの、夕方近くだったので、殆ど人は居なかったが、地元のTV局か、ケーブルTVか解らなかったが取材をしていた。こちとら急遽俄か報道陣に早変わりして、逆取材してやった(!?) 観光地などに行って、カメラをぶら下げて、ブラブラしているとよく取材現場に出会う!

 まあこういう旅籠を歩いていると、江戸時代にタイムスリップしたかの気分になるってもんだ! 長ドス差して、カッパ絡げての三度笠風情で、やっぱり江戸時代にタイムスリップしても、「梲の上がらん」存在でしかないようだ!(;´д`) トホホ!

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【遺跡】 戌立石器時代住居遺跡 長野県東御市 [歴史探訪]

 戌立(いんだて)石器時代住居跡は長野県東御(とうみ)市滋野乙の標高770mの丘陵地の上にあります。西沢川と大石沢川に挟まれ、一帯は日尻(ひじり)沢の谷口にあたる扇状地南側の緩傾斜面となっており、日当たりがよく、乾燥地ではあるが、近くの川から生活水を得やすい環境にあり、居住に適している場所である。[住むに適した環境は昔も今も変わりない!]

 昭和5年(1930)、発掘を行ったところ、敷石のある竪穴住居 跡や炉跡の他に、獣骨片・土器類・磨製石斧・石鏃などが発見されました。隣接の「寺の浦遺跡」(現小諸市井子)と共に昭和8年(1933)文 部省の指定史跡となりました。この時、遺跡の破壊を防ぐのを兼ねて、住居の復元を行いました。発掘された遺構に復元施設を設けたのは日本で最初の試みでしたが、残念ながら落雷によって焼失してしまいました。

    【遺跡】 戌立石器時代住居遺跡 長野県東御市
    https://youtu.be/5SwE_UvBZSw

 昭和58年(1983)、59年にわたって、遺跡範囲確認調査が行われました。その結果、 石器時代住居跡をほぼ中心として、東部町分で約63,000平方メートル、小諸市にわたる「寺の浦遺跡」まで含めると、80,000平方メートル以上におよぶ大遺跡 であることが判明しました。この遺跡は、縄文時代中期から後期中頃までの遺跡と考えられています。なお、現在の復元家屋は、昭和63年(1988)に地元の人々により再度復元されたものです。

 この遺跡も、上田から軽井沢に抜ける山麓線を車で走っていた時、偶然案内板を見つけ行ってみたものです。この東御(とうみ)一帯は、雷電為衛門の生誕地でもあり、生家や、墓、ミニ資料館(道の駅 雷電胡桃の里)などがあります。



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【歴史探訪】 高山村堀之内にある御判屋 [歴史探訪]

 このところ高山村桜回廊巡りを重ねたので、調子に乗って、今回は歴史的な遺物について書いてみます。高山村には、福島正則の荼毘地跡とか、屋敷跡などがあるのですが、それらが何処にあるか、迷いながら探していた時に偶然出会ったものです。

 それは「御判屋」と言われるもので、江戸時代初期に、幕府が、庶民にお定めを周知徹底し、以て徳川の威光を知らしめる為に、交通の要所など、全国津々浦々に設置された(現代風に言えば)掲出板のことです。高札または高札場と言われました。高山村堀之内の正則の屋敷跡から下った三叉路にそれはあります。

 それなりの古さだったので、江戸時代のものがそのまま残って居るのかと思ったのですが、[昭和10年ころまでは存在したらしいのですが]、故あって、競売に付され、その数年後に取り壊されてしまったという事です。しかし昭和59年に、今まであったものを忠実に再現したのだそうです。平成21年高山村文化財に指定され現在に至る。

 御判とは、歴史民俗的用語で、印判や花押を敬った表現で、お代官様の平民に下されたお定書き押されていた、それが押されているものが掲示されているので、「御判屋」という言い方になったのだろうと思う。この御判屋は結構現存していて、川田宿や、海野宿でもみかけました。

   季節外れの動画だが、その時撮った動画を添付します。

   御判屋 信州「長寿の里高山村」の堀ノ内地区にある「御判屋」
   https://youtu.be/L48TGgdhNxk
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